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北条宗時の謎


北条四郎時政┬長男:三郎宗時(?-1180)      ?歳    :母・伊東入道の娘
(43歳)  ├長女:政子(1157-1225)          24歳    :母・伊東入道の娘?
      ├次女:時子(1160?-1196)      21歳?:母・伊東入道の娘?
      ├次男:小四郎義時(1163-1224)18歳   :母・伊東入道の娘
      ├三女:阿波局(?-1227)           ?歳    :母・伊東入道の娘
      ├四女:稲毛重成室(?-?)             ?歳   :母・足立遠元の娘?
      ├五女:畠山重忠室(?-?)             ?歳   :母・足立遠元の娘?
      ├三男:五郎時房(1175-1240)   6歳   :母・足立遠元の娘?
      └六女:平賀朝雅室(?-?)             ?歳   :母・牧の方


 『鎌倉殿の13人』 第5回(1180年)の時点では、北条時政には9人の子がいたと思われる。(六女は牧の方のお腹の中?)そして、「石橋山の戦い」で長男・北条時宗(幼名:若王丸/通称:三郎)が亡くなった。

「北条宗時の謎」とは、「生と死に関する3つの謎」である。

北条宗時の謎① 生年が不明
北条宗時の謎② 別行動の理由
北条宗時の謎③ 討死場所

■北条宗時の謎① 生年が不明


 1157年生まれの北条政子の数年前に生まれたのであろう。

北条宗時の謎② 別行動の理由

■『吾妻鏡』「治承4年(1180年)8月24日」条
北條殿、同四郎主等者、經筥根湯坂、欲赴甲斐國。同三郎者、自土肥山降桑原、經平井郷之處、於早河邊、被圍于祐親法師軍兵、爲小平井名主紀六久重、被射取訖。茂光者、依行歩不進退自殺云々。將之陣与彼等之戰塲、隔山谷之間、無據于吮疵、哀慟千万云々。
(北条時政殿と北条四郎義時様は、箱根の湯坂を経て、甲斐国へ赴こうとした。北条三郎宗時は、土肥から山を降りて桑原、平井郷を経た処、早川の辺りに於いて、伊東祐親法師軍に囲まれ、小平井の名主・紀六(小平井)久重に射取られた。工藤(狩野)茂光は、歩けなくなったので、自殺した。将(源頼朝様)の陣と彼等の戦場とは、山、谷を隔てていたので、(源頼朝様は、)助け様が無く、悲しみは深かったという。)
※吮疵:疵(きず)を吮(す)ふ。(『白氏文集』)

・北条時政&義時親子は、箱根を通って甲斐国へ行こうとした。
・北条宗時は、土肥山(石橋山)を下り、桑原、平井郷を過ぎて早川(相模国足柄下郡早川庄。現在の神奈川県小田原市早川)の近くで伊東祐親軍に囲まれ、小平井の名主・紀六(小平井)久重(『源平盛衰記』では伊豆五郎助久)に矢で射られた。
・源頼朝は、土肥実平の案内で、石橋山の裏山「椙山」に登った。
・工藤(狩野)茂光も椙山に登とうとしたが、(負傷したのか、太り過ぎていたからか)登れなかったので、「もはやこれまで」と切腹した。

 以上、『吾妻鏡』によれば、源頼朝と土肥実平は行動を共にし、工藤(狩野)茂光は行動を共にしようとしたが出来ず、北条時政&義時親子と北条宗時は、源頼朝と、なぜか別行動をとった。

 単純に考えれば、「全滅を避けるために、バラバラに逃げた」であるが、北条時政&義時親子と北条宗時には、源頼朝から何か使命が与えられたような気がする。北条時政&義時親子に与えられた使命は、箱根湯坂道(鎌倉古道「湯坂路(ゆさかみち)」)を通って甲斐国へ行き、甲斐源氏・武田信義に加勢を頼むことであり、北条宗時に与えられた使命は、川を渡れないでいる東の三浦軍と連絡を取ることだったと思われる。

・北条時政&義時親子は、源頼朝の命で、箱根を通って甲斐国へ行き、援軍要請をしようとした。
・北条宗時は、
源頼朝の命で、石橋山を下り、東へ進み、三浦軍と接触しようとしたが、早川付近で射殺された。
・源頼朝は、北条親子に指示した後、土肥実平の案内で、石橋山本陣から裏山「椙山」へ移った。
・工藤(狩野)茂光も椙山に登とうとしたが、登れなかったので切腹した。

以上が史実だと思われるが、何が謎かといえば、
・桑原も、平井も、伊豆国田方郡の地名である。
・伊豆国田方郡の北条宗時の墓の横に工藤(狩野)茂光の墓がある。
ということである。

北条宗時の謎③ 討死場所


 北条宗時は、石橋山を下り、桑原(静岡県田方郡函南町桑原)、平井郷(静岡県田方郡函南町平井)を過ぎた早川の近くで伊東祐親軍に囲まれ、紀六(小平井)久重(『源平盛衰記』では伊豆五郎助久)に矢で射られた。

※紀六(小平井)久重は、行方をくらますも、翌・養和元年(1181年)4月、工藤景光に捕らえられ、腰越浜で処刑され、首を晒された。

 「早川」といえば、今川氏真の正室・早川殿(北条氏康の娘)の屋敷があった場所(相模国足柄下郡早川庄。現在の神奈川県小田原市早川)であるが、北条とは逆方向である。『源平盛衰記』「石橋合戦事」に「八月廿二日には、兵衛佐、北条、佐々木を先として、伊豆相模二箇国の住人同意の輩、三百余騎を引具して、早川尻に陣を取る」とある。「早川尻」とは、「早川の川尻(河口)」であることから、「早川(はやかわ)」は地名ではなく、「早川(さかわ、酒匂)」という河川名のようにも思われるが、「早川庄」という荘園名でもある。
 静岡県田方郡函南町には「早川」はないが、宗時神社(静岡県田方郡函南町大竹神戸坂)の前(南)を流れる川を「冷川」という。
 北条宗時の墓と工藤(狩野)茂光の墓は、宗時神社の境内にある。大竹の宗時神社は、北条から約5kmの地点にあることから、『吾妻鏡』の記述とは異なり、2人は北条に向っていたと考えられる。『鎌倉殿の13人』では、北条宗時は、源頼朝の正観音像を北条館に取りに行き、工藤茂光は体のサイズに合う鎧を取りに行くために同行し、河原(「早川」は地名ではなく、河川名)で討たれたとしている。

 宗時神社は、「墳墓堂」として『吾妻鏡』に登場する。

■『吾妻鏡』「建仁2年(1202年)6月1日」条
建仁二年六月小一日甲戌。晴。遠州令下向伊豆國北條給。依有夢想告、爲訪亡息北條三郎宗時之菩提給也。彼墳墓堂、在當國桑原郷之故也。
(建仁2年(1202年)6月1日。晴れ。北条遠江守時政殿は、伊豆国北条へ行かれた。夢のお告げにより、亡き息子・北条三郎宗時の菩提(墓所)を訪れるためである。というのも彼(北条宗時)の墳墓堂(現在の宗時神社)が伊豆国桑原郷にあるからである。)


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