見出し画像

【講談】『三方ヶ原軍記』「湯水の行水」他

『どうする家康』の第17回は「三方原合戦」、第18回は「真・三方原合戦」でした。タイトルの「シン」には「真」と「新」の意味が含まれていますが、「真」は、「真」であって、「新」の意味は含まれません。

「真」とは「真実」であり、第17回「三方原合戦」では徳川家康が討ち取られたとし、第18回「真・三方原合戦」では、討ち取られたのは影武者(身代わり)であり、徳川家康は討ち取られていないと真実を描きました。(「史実」は「徳川家康の馬が動かなくなったので、夏目広次が自分の乗ってきた馬を徳川家康に与えた」で、この史実以外は夏目家が創作した尾ひれでしょう。)


名前が2つある理由は分かりません。
・夏目吉信。一次史料上で確認できる実名は広次。
・関口親永(瀬名姫の父)。一次史料上で確認できる実名は氏純。
・真田幸村。一次史料上で確認できる実名は信繁。
・秋山信友。一次史料上で確認できる実名は虎繁。
・・・
「諱(いみな)」には、①【本来の意味】死んだ人の生前の名前、②【後の意味】人の死後尊敬しておくる称号、諡(おくりな、贈り名)の2つの意味があります。
 一次史料上で確認できる実名は「死んだ人の生前の諱」であり、本に出てくる実名は、「死後に贈られた諡」なのでしょうか?(神道では、人は亡くなると家の守り神に変わると考えられ、敬意を表して諡(男なら「翁」、女なら「刀自」等の称号)が与えられます。)
 「諱を知られると、諱を使って呪われる」とも言いますから、一次史料に書かれている名こそ偽の諱(知られてもいい諱風の呼称)なのかもしれませんね。

 それにしても、『どうする家康』の徳川家康が、「夏目吉信」「夏目広次」と実名で呼ぶ理由が分かりません。呼称は「次郎左衛門」では?(『どうする家康』の鳥居彦右衛門元忠なんて「彦」、平岩七之助親吉なんて「七」と呼ばれています。)


 さて、「三方ヶ原の戦い」には、『どうする家康』で取り上げられた夏目吉信と本多忠真の話以外にも実に多くのエピソードがあります。
・たとえば「空城の計」。諸葛孔明は楼台で琴を弾き、敵を誘いましたが、酒井忠次は櫓で太鼓をたたきました。これは諸葛孔明の故事に合わせるためとも、味方を鼓舞するためとも考えられています。(『どうする家康』では「酒井の太鼓」が省略されました。これでは「空城の計」が成立しません。)太鼓ですと、音が遠くまで伝わって、味方に帰るべき浜松城の方角を知らせることになったでしょう。武田信玄を誘うなら、諸葛孔明のように琴とか、笛とか。(この後の「野田城攻め」では、武田信玄は笛の音に誘われています。)
・たとえば「影武者」。浜松城に戻った徳川家康は、坊主を探させると、その首を刎ね、槍で突き刺して高く掲げ「武田信玄を討ち取ったぞ」と叫びました。味方を鼓舞するためです。
・たとえば「高いびき」。浜松城に戻った徳川家康は、高いびきをかいて寝たので、周囲の者は「大者だ」と驚きました。(『どうする家康』の徳川家康は、大八車に乗っていた首の無い死体のように、死んだように仰向けで寝ていました。泣いていて、いびきはかいていませんでした。さすがにアイドルには「いびきをかいて」とは頼めないのでしょう。ところで大八車って戦国時代にあったのでしょうか? 江戸時代に大八さんが発明したのでは? おっと、これは技術史のテーマですね。)

【講談】『三方ヶ原軍記』「湯水の行水」とは、仲が悪かった鳥居四郎左衛門忠広と成瀬隼人藤蔵正義が「三方ヶ原の戦い」の前日に行水勝負をするも仲よくなるという話です。「三方ヶ原の戦い」の当日、最初は徳川方が優勢で、互いに首を3つ取って帰城しました。引き分けということで、2人は戦場に戻ります。しかし、次第に徳川方が劣勢となり、成瀬正義は山県隊に囲まれ、討ち死にしました。それを見た鳥居忠広は、「前日に打ち解けた喧嘩友達の仇討ち」と言わんばかりに武田軍に突進して討ち取られました。というのが講談で、「真」の話は、成瀬正義は、旗奉行として徳川本陣にいましたが、戦況が不利になると、武田軍に突進し、「われこそは徳川家康なり」と名乗り、影武者(身代わり)として討ち取られたそうです。(彼が討ち取られた場所は、今では「成瀬谷」と呼ばれています。「三方ヶ原の戦い」の主戦場は、『苺ましまろ』の聖地として知られるこの成瀬谷周辺なのかとも思いましたが、違うでしょう。成瀬正義は徳川本陣の位置を知られないためには「戦場は徳川本陣から遠ければ遠いほどよい」と考えたはずですから。)
 成瀬正義の墓は宗源院(入野村。現・静岡県浜松市中区蜆塚)にあります。宗源院には「われこそは徳川家康なり」と名乗って討ち死にした人々や、「われこそは徳川家康なり」と名乗って自刃した人々を祀るお堂がありましたが、今はお墓だけでお堂はありません。
 「成瀬正義の妻・勒(本多忠勝の姪)は、本楽寺に入って妙意と名乗りました。この本楽寺は「高天神城の戦い」で焼失したため、徳川家康は、釘浦山本楽院大澤寺(静岡県牧之原市波津)として再建しました。

記事は日本史関連記事や闘病日記。掲示板は写真中心のメンバーシップを設置しています。家族になって支えて欲しいな。