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藤長庚『遠江古蹟図会』044「掛川雲霧城」

雲霧城
佐野郡懸河の城。名城にして「雲霧城」と云ふ。その訳は、永禄年中、神君、この城を崩さん為、小笠山に登り、高峰より震天雷をしかけられし時に、城の下なる三ヶ月堀と云ふ堀より霧出でて城を隠す。このゆゑに崩す事能はず、止みにけり。今にても乱に及ぶと霧出づる由。この時、今川氏真、この城に篭居せしとなり。城主は朝比奈備中守、城を守る。登城の元祖なり。城の鎮守は牛頭天王なり。すなはち龍尾山と云ふ。神主・龍尾伊織。城を龍頭城と云ふ。城の下なる城堀、三日月の形。懸河と云ふ。往古より「懸河」と書きたれども、三十年前より「掛川」と書くべき旨、領分中、触れを出だす。「懸川」にてなくて叶はざる字なり。朝比奈侯の時なり。

 徳川家康が小笠山砦から大砲で掛川城を撃とうとすると、掛川城の三日月堀から霧がたち、掛川城を隠したことから、掛川城は「雲霧城」と呼ばれるようになったという。(霧は三日月堀からではなく、「霧吹き井戸」から出たとされる。)

 小笠山砦は遠くて、玉は届かないであろう。近くの青田山砦からでも届かないと思う。


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