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『鎌倉北条九代記』に見る北条政範の死

■『鎌倉北条九代記』「北條政範死去」
 遠江守從五位下左馬頭權助政範は、今度、將軍家北御方御迎ひの人數に選ばれ、京都に上洛しける所に、路次より病惱に侵され、身心安からずといへども、立ち歸べき事も流石(さすが)なり、諸將に打連れて上りけるが、愈(いよいよ)病氣重くなりければ、仙洞を初め奉り、諸將、諸侍(しよじ)、手を握り、足を空になし、醫、針の祕術、薬石の神方、樣々、手を盡しけれども、極れる天年にや、更に少の驗(しるし)もなく、遂に死去せられけり。今年末だ十六歳、十一月五日、忽(たちまち)に無常の風に誘はれ、瓦隴の霜と消えにけり。一族郎従等(ら)、力を落し、泣々挽歌を歌ひ、翌日の早朝に東山鳥部野(とりべの)に葬り、枯殘りたる草を刈拂ひ、一聚(しう)の塚にぞ埋(うづ)みける。飛脚を以て關東に告げたりければ、將軍實朝卿には御寵愛の近侍なり、牧御方の腹として、時政夫婦の愛(いつくしみ)、荒き風にも當て參(まゐら)せじと、花を飾り玉を弄(もてあそ)ぶ如くなりしかば、大名、諸侍の餘勢重く、時めきける人ぞかし。今、かく聞き給ひ、俄(にはか)に燈火(ともしび)を打消したるやうに、肝心(きもこゝろ)を失ひ、牧御方、絶入(たえいり)々々、歎き悲(かなし)み給へども、其甲斐もあらざれば、僧を請じて經讀みつゝ、菩提を弔ひ給ひける。哀(あはれ)なる事共なり。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1186667/203

 北条政範は、今度、将軍・源実朝の正室を迎える人々の1人になり、上洛したが、上洛途中で病気になり、身心共にすぐれなかったが、鎌倉に帰ることはさすがに出来なかった。それで、諸将に連れられて上洛したのであるが、ますます病気が重くなったので、仙洞(後鳥羽上皇)をはじめといたして、諸将、諸侍たちが協力して手分けしてあちこちへ行き、医術、針術の秘術、薬の適切な投与など、手を尽くしたが、天に決められていた年齢であったのか、一向に少しの効果もなく、ついに亡くなられた。歳は若干16歳。11月5日、忽ち、無常の風に誘われ、瓦屋根の霜となって消えた。一族、郎党、力を落とし、泣きながら挽歌を歌い、翌日の早朝には、東山の鳥辺野(京都市東山区)に葬り、枯れ残っていた草を刈り取り、一基の塚を築いて埋めた。飛脚が鎌倉にこの事を告げると、北条政範は将軍・源実朝の御寵愛の近侍であり、牧の方が生んだ子として、北条時政夫婦が愛し、「(世間の)荒々しい風に当ててはならぬ」と、花を飾り、玉をなでるように(蝶よ花よと)育ててきた子であるので、大名や諸侍の支持が厚く、もてはやされた人であった。今、訃報を耳にし、突然、火を消したように、正気を失い、牧の方は、息も絶え絶えに、歎き悲しまれたが、その甲斐もなく(悲しんでも死んだ人が生き返るはずはなく)、僧を招いてお経を読みながら菩提を弔われた。哀れな事である。

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