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平田寺の木犀

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■『日本仏家人名辞書』「宏雲」(1903)
〔臨済宗〕遠江平田寺の開山なり。宏雲、字は龍峯と云ふ、俗姓は藤原氏、相模の人上杉掃部頭頼重の子にして、足利尊氏は其外姪なり、幼にして出家受戒し、長じて諸方の名師に参ず。建治元年宋に入りて留まること5年、元大元16年祖元子元、北條時宗の請を受けて到るに際し、従ひて帰朝す。即ち我が弘安2年なり。尋いて祖元の法嗣円覚寺長寿院雲屋恵輪に就いて参学し、その印可を受く。弘安6年春鎌倉を辞して、遠江相良荘通菩提山に到り、支那の径山に似たりとなし、禅苑を営みて平田寺と云ふ。7年春、上杉公相良荘に邸宅を構へ、屡々(しばしば)宏雲の室に入りて禅要を問ふ。永仁元年上杉公、私田80町及ぴ山林河海等を寄附して’常住の供に充て、後、諸伽藍を営みて悉く落成せしむ。2年4月京都に上り奏請して免税の綸旨を賜はり、4年5月宮に入りて謝恩し、並に勅問に奏対す。その答語中、山吸長江の句あり是より吸江山と号せり。嘉暦2年又、京都に入りて後醍醐天皇に謁し、皇祚祈祷の綸旨を賜はり、元弘2年又、京都に入りて天皇に謁す。正応2年足利尊氏と相見し崇敬を受くること敦し。是より平田寺の興隆日に益々起り、宏雲の声價亦愈々(いよいよ)顕る。建武4年6月3日寂す。寿欠く。尊氏奏して荘田若干畝を賜はり、その追福に具へしめらる。

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 臨済宗妙心寺派吸江山平田寺(きゅうこうざんへいでんじ)は、静岡県牧之原市大江にあります。

 寺宝(文化財)は、
・国宝「聖武天皇勅書」(749年)
・静岡県指定文化財「平田寺文書」
・静岡県指定文化財「石造宝塔」(上杉憲藤の墓?)
になります。
 他には、牧之原市指定文化財「平田寺本堂」、オペラ歌手・三浦環(2020年NHK朝ドラ『エール』に登場した双浦環(柴咲コウさん)のモデル)の歌碑などがあります。宝蔵があります。屋外の「石造宝塔」はレプリカで、本物の静岡県指定文化財「石造宝塔」は宝蔵にあります。

 平田寺の開山は行基で、弘安7年(1284年)、上杉憲藤(上杉頼重の孫)に平田寺のある相良荘が与えられると、上杉憲藤は、菩提山にいた叔父(上杉頼重の次男)・龍峯宏雲(仏光国師無学祖元の孫弟子)を呼んで、中興開山としました。その後、龍峯宏雲は、上杉憲藤の次男・空叟智玄を猶子にして、平田寺を嗣がせたそうです。

 「長男は家を継ぎ、次男は菩提寺の住職になる」というのは、武家にはよくあるパターンですが、手元の『尊卑分脈』「上杉氏系図」には龍峯上人「宏雲」の名も、空叟上人「智玄」の名もありませんでした。

上杉①重房─上杉②掃部頭頼重┬③憲房┬憲顕【山内上杉家】
               ├宏雲 └憲藤【犬懸上杉家】┬朝房
               └清子                  ├智玄
                  ‖─足利尊氏           └朝宗
              足利貞氏

『日本仏家人名辞書』の記述は、『平田寺文書』の1書、兀堂「平田寺草創記」(享保14年(1729年))の要約と思われますが、「平田寺草創記」に書いてあって『日本仏家人名辞書』に書いて無いことが2つあります。
 1つは、弘安6年(1278年)春、小夜の中山に出現した「蛇身鳥」の話であり、もう1つは「司命鬼」の話です。「伝説」として削除されたのでしょう。

 「蛇身鳥」については、羽が刃物のようで、触れると切れることから、「遠州版鎌鼬(かまいたち)」説がありますが、私は「鳳凰の荒魂」だと思っています。

鳥の長・鳳凰(西洋のフェニックス(不死鳥)に孔雀、雉を加味)「徳」
獣の長・麒麟(西洋のユニコーン(一角獣)に鹿を加味)「仁」

 「司命鬼」は、「平田寺草創記」では「閻魔大王の使者」、「司命鬼論」(『鈴木家文書』)では「衆生の生死を知る者」(人の額には、何歳で死ぬか書いてあり、それを読むことができる者)となっていることから「『デスノート』の死神」説もありますが、「子供を引き取りに来た上杉憲藤の使者」ではないでしょうか? 

波津陣屋の代官・小島蕉園(1771-1826)も触れています。

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■小島蕉園『蕉園渉筆』「平田寺木樨」(1825)
平田邑汲江山寺有木樨朽腐者、周囲垣之。開祖龍峰師時、日坂、菊川辺有怪禽、其羽如刃、触者立死。三位某将弓手隊射殺之。泊駅数月、三位蜜通其舎処女名菊者、去後生一児、及長託龍峰。
有悪星。為鬼来欲奪。龍峰期以十歳。鬼題児額以十字、及期而来、加一点十上曰、甞以千歳為期。何来之早、鬼屈将去、作偈示之。鬼不能和乃転之木樨、樹々枯。鬼去至今植木犀不殖云。是流俗所伝称不足信焉。現住曰翠巌好詩、頗有識見一日。話及之、哂而不応。

【現代語訳】平田村の吸江山平田寺に枯れた木犀があり、その周囲には石垣がある。平田寺開山・龍峯宏雲の時、日坂宿~菊川宿周辺に「怪禽」(怪鳥「蛇身鳥」「刃の雉子」)が出現し、その羽は刃物のようで、触れる者は立ったまま命を落とした。上杉一条三位憲藤は、天皇の勅命により、弓手隊を率いてこの怪禽を射殺した。この時、上杉憲藤は、日坂宿に数ヶ月滞在したのであるが、その「舎処」(屋処(やど)。地元の愛宕長者(後に静岡県指定文化財「石造宝塔」を建てた如蓮沙弥)の屋敷。所在地は事任神社横とも、秋葉灯籠付近とも)の娘・白菊と密通し、上杉憲藤が去った(帰京した)後、1人の男子が生まれ、成長するに及んで龍峯宏雲に託した。
 悪星あり。鬼と為して平田寺に来て(乗ってきた火焔車を木犀の巨木に立て掛け)、上杉憲藤の子を奪おうとした。龍峯宏雲が、
「10歳になるまで待って下され」
と言うと、鬼は証文だと言わんばかりに、子供の額に「十」と書いたので、龍峯宏雲は、すかさず、「十」の上に「ノ」と書いて「千」とし、
「1000歳と書いてあるが」
と言うと、鬼は、
「おや、来るのが早すぎた」
と言って去ったが、その時に、偈(七言絶句)を詠んだ。(「平田寺草創記」には、龍峯宏雲が、
司命来示師説法
巍々坐断紫金蓮
疑是這老機未密
果被鬼神窺半辺
と詠むと、鬼は、「蓮」「辺」をあわせて、
千仞滝従雲頂落
清浅鯨波生紅蓮
仏法自然妙得脱
都処凡聖在師辺
と返したとある。)鬼は使命を果たせず、乃(すなわ)ち(悔しく思って)火焔車を立て掛けていた木犀の巨木を転(ころ)ばす(倒す)と、枯れてしまった。鬼が去ってから今に至るまで、木犀を植えても根付かず枯れてしまうという。これは流俗(りゅうぞく。俗人)が伝える話であり、信じるに足らない。現住(平田寺の現在の住職)・翠巌は、詩を好み、博識(有識者)であったので、話題に尽きず、雑談は一日に及んだが、この話が出ると、笑いとばして語らなかった。

『蕉園渉筆』:相良は、田沼意次失脚後、田沼排除に貢献した一橋徳川家の領地に編入された。一橋徳川家の代官として現地に居住し、小学校の修身(現在の「道徳」)の教科書に掲載された人物が小島彜(通称「源一」、字「公倫」。松尾芭蕉の大ファンであったので「蕉園」と号した)である。
 小島蕉園の著書『蕉園渉筆』(別名『蕉園遠州奇談』)には、彼が相良で見聞した180余の話が収録されている。「奇談」と言っても、「怪談」だけではなく、「ここが変だよ遠州人は」「遠州相良と江戸はここが違う」という話も多い。

■渡辺陸平編『竹下村誌稿』(1924)
 因に云う、蕉園は江戸の人、源一と称す。初め甲斐の代官となり、清廉にして恵政を行ない、議可かれず退きて医に隠れしが、文政中、一橋家の代官(相良波津)に抜かれ、榛原(四十九ヶ村)城東(二十四ヶ村)三万石を支配し、政化大いに行われ、頗る令名を伝う。蕉園、漢学を能くし、詩文に巧みに、平生見聞する地理風俗、その他漢文にて記せしもの、百八十余条あり。名付けて蕉園渉筆と云う。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/917819/51

■異説


『司命鬼論』では、
・初代・龍峯宏雲と上杉憲藤の子・文殊童子(後の2世・空叟智玄)
の話ではなく、
・3世・道峰祖貫と勝間田義清の子・勝王丸(後の大勝和尚)
の話としています。
 そして、『司命鬼論』では、鬼が勝王丸(8歳)を迎えに来て「額に八と書いてあるから」と言うと、道峰祖貫はすかさず下に「十」と書いて80にしたとしています。(御手洗清『続 遠州伝説集』には、この異説の方が掲載されています。『続 遠州伝説集』に出典は『さがら伝説百話』とありますが、『さがらの伝説百話』(1983年に再発行)であり、その出典は『司命鬼論』でしょう。)

 天才や美人は天に愛されるので短命だとか、不運だとかいう(佳人薄命)。上杉憲藤の子は神童で、文殊菩薩のように頭がよかったので「文殊童子」と名づけられたという。さぞかし、天は欲しかったであろう。でも、こういう機転の効く和尚さんが近くにいれば心強いね。
 「7歳までは神の子」というから、神に召されても仕方がないが、8歳を過ぎたら抵抗したいぞ!

 平田寺に行って、石垣に囲まれた枯れた木犀を見た時に、この話を思い出していただければ幸いです。

■参考文献
・小島蕉園『蕉園捗筆』1825
・山本樂山『新譯蕉園渉筆』1951
・相良町教育委員会『さがらの伝説百話』「第40話 平田寺の木犀」
・御手洗清『続 遠州伝説集』「第257話 平田寺の木犀」1974
・文部省『小島蕉園伝』1918(墓誌全文掲載)
■参考記事
・大澤寺「遠州の奇談伝承も各所に 蕉園渉筆 平田寺の項

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