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三方原馬鈴薯

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 また「三方原馬鈴薯」(ブランド名)を購入。「三方原馬鈴薯」の特徴は、突然変異なのか、品種改良の成果なのか、生育環境なのか、とにかく白いことだよ。
 前回はジャガバタ(バターは、北海道気分に浸るために「よつ葉」)にしたが、今回はポテトチップスにしようと大きい物を購入。
https://www.yotsuba.co.jp/

 そういえば、牛乳が大量にあまって捨てることになるとか。バターとかに加工できるといいのにね。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20211228/k10013407381000.html

 今回購入した「三方原馬鈴薯」の発売元は「根洗太陽出荷組合」。「根洗(ねあらい)町」は「根洗い松」(根が地上に出ている松)周辺の町名です。徳川家康と武田信玄の「三方ヶ原の戦い」では、武田信玄が本陣を置き、物見が根洗い松にのぼって、戦況を逐次報告したと伝えられています。


 三方原の開拓は三方原用水が完成してからのことで、徳川家康と武田信玄の「三方ヶ原の戦い」の時には、水が無くて、田畑は無く、家も1軒も無かったそうです。三方原用水が出来て開墾はしたものの、出土した武具は小豆坂で刀のつばが1個だけ。そのため、「三方ヶ原の戦い」の戦場が分かっていません。戦場には、

説①:三方原南部:小豆坂(つばの出土場所)←従来説(旧石碑)
説②:三方原南部:小豆坂と刑部砦の間の谷(鎮魂碑)←郷土史家説①
説③:三方原北部:「根洗い松」(武田信玄本陣地)の南←新説(新石碑)
説④:三方原北部:「丸山」(武田信玄本陣地)の南←合戦図
説⑤:三方原東側:浜松平野北部(「遠州大念仏」分布)←郷土史家説②

の5説があります。
 徳川家康と武田信玄の「三方ヶ原の戦い」の時、三方原には横断する道「信玄街道」、縦断する道「鳳来寺道(半僧坊道)」(現・金指街道)すら無かったとする説もあります。とすると、武田信玄の本陣は、三方原の北端の道(説④)か南端の道(説①、説②)の付近になります。北端だと、戦場は三方原北部の原野になりますが、徳川軍はそこまで道がないので行けません。とすると、否定された従来説の「南端」の可能性が高いです。
 また、戦いの後は、死体を埋めます。それが小豆坂の北の「千人塚」(戦人塚)だと考えられてきましたが、発掘調査により、「千人塚」は、古墳時代の古墳であることが分かりました。ということで、未だに「塚」の場所が分かっていません。
 ちなみに、私の説は、「戦場は姫街道~浜松城にかけてで、戦死者の墓所は犀ヶ崖」です。浜松平野北部から南下して浜松城に向った武田軍が突然方向転換して小豆坂を登り始めたので出陣し、多数の死者が出たので、穴を掘って埋めて「塚」にしたのではなく、崖(というかV字谷)に落として、両側の斜面を削って埋めたのでしょう。死体の数が多すぎて、そうせざるを得なかったのでしょう。「遠州大念仏は犀ヶ崖に落ちて死んだ武田兵の魂を供養するために始められた」とされていますが、「遠州大念仏は犀ヶ崖に落とされた死者(徳川兵&武田兵)の魂を供養するために始められた」のでしょう。

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