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第27回の再放送を観た。

今日の土曜(土用の丑の日)はいろいろあった。
【MLB】大谷さん、11奪三振。でも6回に突如乱れて6失点で負け投手。
【高校野球静岡県大会】聖隷は勝ち進んでるけど、失点も多い。
【世界陸上】北口さん、笑顔の天使が泣きじゃくる。
【世界陸上】マイケル・アーサー・ノーマン・ジュニア(Michael Arthur Norman Junior)が400mで優勝。日本代表として出て欲しかった。
 マイケルの父親はアメリカ人だけど、母親は日本人。母・斎藤伸江さんは、静岡県浜松市出身で、入野中学時代(1989年)の全日中(第16回全日本中学校陸上競技選手権大会)の女子100mで中学女子日本記録(女子中学生初の11秒台!)をマークして優勝!(それにしても、入野中学って、何で次々と有名人を輩出するんだろう?)

さてさて、今回は「13人の合議制」の「13人の選出過程」の話であった。

『吾妻鏡』には、次のようにある。

■『吾妻鏡』「建久10年(1199年)4月1日」条
 建久十年四月大一日壬戌。被建問注所於郭外、以大夫属入道善信爲執事、今日始有其沙汰。是故將軍御時、營中點一所、被召决訴論人之間、諸人群集成皷騒、現無礼之條、頗爲狼藉之基。「於他所可行此儀歟」之由、内々有評議之處、熊谷与久下境相論事對决之日、直實於西侍除鬢髮之後、永被停止御所中之儀、以善信家爲其所、今又被新造別郭云々。

(建久10年(1199年)4月1日。(源頼家は)「出家した三善善信を執事(長官)として(裁判を担当する)問注所を郭外(大倉御所の敷地外)に建てよ」と、今日、初めて指示した。
 故・源頼朝将軍の時、営中(大倉御所の敷地内)の1ヶ所を指定して、訴論人(原告の訴人と被告の論人)を呼び出して対決(口頭弁論)をさせていたが、(不満があり、訴訟に勝とうと殺気立った)人々が集ると騒がしいし、無礼を働くしで、狼藉の原因となっていた。それで「裁判は他所でやるべきではないか」と水面下で評議されてきたが、(建久3年(1192年)11月25日)熊谷直実と久下直光が相論(土地問題)で対決した時、熊谷直実が西の侍所で髷を切った事があってから、大倉御所での裁判を停止し、(7年にわたって)三善善信の家で裁判をしていたのであるが、今日、問注所(裁判所)の新造の指示が出されたという。)

国会議事堂に殺気立った人々が集まってきて裁判を行うと、騒がしいし、危険である。そこで、裁判は三善善信の家で行うようにしていたのであるが、今日、源頼家は、三善善信を執事(長官)とする最高裁判所を国会議事堂の外に建てるよう指示した。

■『吾妻鏡』「建久10年(1199年)4月12日」条
建久十年四月大十二日癸酉。「諸訴論事、羽林直令决断給之條、可令停止之。於向後大少事、北條殿、同四郎主、并兵庫頭廣元朝臣、大夫属入道善信、掃部頭親能(在京)、三浦介義澄、八田右衛門尉知家、和田左衛門尉義盛、比企右衛門尉能員、藤九郎入道蓮西、足立左衛門尉遠元、梶原平三景時、民部大夫行政等、加談合、可令計成敗。其外之輩、無左右不可執申訴訟事」之旨被定之云々。

(建久10年(1199年)4月12日。「さまざまな訴訟の事について、羽林(源頼家)が直接、判決を下すことを停止する。今後は、大小全ての訴訟を北条時政、北条義時、並びに中原(後の大江)広元、出家した三善善信、在京中の中原親能、三浦義澄、八田知家、和田義盛、比企能員、出家した安達盛長、足立遠元、梶原景時、二階堂行政らが談合して、成敗する(判決を下す)。その他の者達は、むやみに訴訟を取り扱ってはいけない」と定められたという。)

 羽林(将軍・源頼家)は、総理大臣であると共に、最高裁判所の裁判官であったので、国会議事堂(大倉御所)と最高裁判所(問注所)の往復をしていたのであろう。とはいえ、11日前に最高裁判所の長官に三善善信を指名しているので、三善善信が判決を下し、源頼家が承認して、判決状に花押を書けば済むと思うのであるが、「13人の裁判官の合議によって判決を下す。源頼家は判決を下せない」としたという。その13人のメンバーには、侍所の別当(長官)・梶原景時がいるわけで、「問注所の仕事をせずに、侍所の仕事に専念しろ」と言いたくなる。
 実は『吾妻鏡』の原本は発見されておらず、最も信用できるという写本(「善本」という)「北条本」には「羽林直令决断給之條、可令停止之」とあるが、「吉川本」には「羽林直令聴断給之條、可令停止之」とある。この「聴断」は「直接聞いて判決を下すこと」と解釈されている。つまり、「源頼家への直訴の禁止」であって、訴えたい場合は、13人の宿老(有力御家人)の誰かに訴え、訴えを受けた宿老は、「自分なら、前例に従い、こう判決を下す(源頼朝であれば、こう判決を下したであろう)」というアドバイスと共に源頼家へ訴えを取り次ぎ、源頼家が判決を下すシステムにしたのだという。確かに、文官ではない御家人が判決を下すのは不得手であろし、判決に将軍のお墨付きがないのはまずい。13人の宿老は、取次ぎ人、評定衆に過ぎず、最終的な判決は源頼朝がしたのであろう。

■『吾妻鏡』「建久10年(1199年)4月20日」条
建久十年四月大廿日辛巳。爲梶原平三景時、右京進仲業等奉行、書下政所云。「小笠原弥太郎、比企三郎、同弥四郎、中野五郎等從類者、於鎌倉中、縱雖致狼藉、甲乙人敢不可令敵對。若、於有違犯聞之輩者、爲罪科、慥可尋注進交名之旨、可觸廻村里之由。且、彼五人之外、非別仰者、諸人輙不可參昇御前」之由云々。

(建久10年(1199年)4月20日。梶原景時と中原仲業が奉行(担当者)として、政所に張り紙をして告知した。「『小笠原長経、比企宗朝、比企時員、中野能成らの従類(従者や親族)は、鎌倉の中においては、たとえ狼藉を致しても、甲乙人(一般庶民)は、敢えて敵対してはいけない。もし、違反を聞いた者は、罪人として違反者の名前を調べて報告するように』と村里へ触れ回るように。かつ、この5人以外は、特別な仰せがなければ、諸人は源頼家の御前に参上できない」という。)

 従来は、13人の宿老に判決権を奪われた源頼家は、対抗措置として、「鎌倉殿の5人」を決めて、特権を与えたと考えられていた。
 新説では、13人の宿老は取り次ぎ人に過ぎず、源頼家とは対立しておらず(「鎌倉殿と十三人」ではなく「鎌倉殿の13人」であり)、これは、単に一般庶民は「近習5人衆」の「従類」(従者や親族)に敵対してはならないという、庶民への定めであるとする。
 なお、「近習5人衆」は、小笠原長経、比企宗朝、比企時員、中野能成、北条時連の5人とされるが、『吾妻鏡』には、「5人」とあるだけで、北条時連の名はない。

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学者が驚いているのは、
①4月1日(三善善信)~4月12日(三善善信と12人)に何が起こった?
②なぜ若い北条義時が入っているのか?
ということである。

▲「13人の合議制」のメンバーと北条義時との年齢差
①【文官・政策担当】中原広元  (栗原英雄)   17歳年上
②【文官・外務担当】中原親能  (川島潤哉)   20歳年上
③【文官・財務担当】二階堂行政 (野仲イサオ)  ?歳
④【文官・訴訟担当】三善康信  (小林隆)    23歳年上
⑤【相模国の御家人】梶原景時  (中村獅童)   ?歳
⑥【武蔵国の御家人】足立遠元  (大野泰広)   ?歳
⑦【相模国の御家人】安達盛長  (野添義弘)   28歳年上
⑧【常陸国の御家人】八田知家  (市原隼人)   ?歳
⑨【武蔵国の御家人】比企能員  (佐藤二朗)   ?歳
⑩【伊豆国の御家人】北条時政  (坂東彌十郎)  28歳年上
⑪【伊豆国の御家人】北条義時  (小栗旬)    ───
⑫【相模国の御家人】三浦義澄  (佐藤B作)    36歳年上
⑬【相模国の御家人】和田義盛  (横田栄司)   16歳年上

①については、13人の宿老=訴訟の取り次ぎ人であれば、受付け窓口は多い方がいい。(三善善信に集中したら、三善善信が大変。)
②については、(相模国の東隣の武蔵国と西隣の伊豆国の受付窓口を2つにするための)数合わせであろう。

また、このメンバーを見ると「全国の訴訟」というより、「坂東の訴訟」を扱うように見える。坂東以外の訴訟は各国の守護・地頭が扱い、判決が不服であれば、鎌倉の文官衆に訴えたのであろう。

1.『鎌倉殿の13人』で示された説


①北条義時は、源頼家を支えようと、側近(評定衆、宿老)に中原(後の大江)広元、三善康信、中原親能、二階堂行政の評定が得意な文官4人と、源頼家が信用している乳母夫・梶原景時を源頼家への取り次ぎ役として、「5人衆」を選び、梶原景時が源頼家に報告した。

②これを聞いた源頼家の乳母夫・比企能員は、「(まだ若い源頼家を評定衆が支えるという案は)よい考えだ」としながらも、「ただし、(源頼家の乳母夫の)梶原が入っているのに、なぜ(もう1人の乳母夫である)比企が入っていないのだ。わしも入れて6人衆にしていただこう。さもなくば、比企は以後一切、力を貸さぬ」と言い、側近は6人衆となった。

③この比企能員の発言を聞いた北条時政は、「6人衆・・・くだらねぇ見栄張るもんだな。しょうがねぇ。だったら、わしも加えてもらおう。当たり前だ。梶原と比企が入っていて、北条がいなくてどうする。7人衆だ」と言い、側近は7人衆となった。

④妻の道に焚きつけられた比企能員は、妻が比企の出の安達盛長を引き入れようと、「我らに力を貸すことが、新しい鎌倉殿をお支えすることにつながり、ひいては頼朝様の何よりの供養になるのだ。意見が割れた時に、わしらの味方をしてくれればよい。あとは餅でも食って、いびきでもかいていなさい」と言った。こうして側近は8人衆となった。

⑤北条時政は、北条派を増やして比企派に対抗しようと、友の三浦義澄を誘い入れた。こうして側近は9人衆となった。

⑥北条時政は、調子に乗って「もう1人ぐらい行っとく?」と、三浦義村を誘うが「三浦から2人出すのは角が立ちましょう」と断られた。

⑦さらに北条時政は、和田義盛に声を掛けた。渋る和田義盛だったが、北条時政の妻・りくに「和田殿の勢いが欲しいの」と言われて、「お手伝いいたしましょう」と即諾。こうして側近は10人衆となった。

⑧さらにさらに北条時政は、「もう1人ぐらい行っとく?」と、比企能員と同様、武蔵国の御家人である娘婿の畠山重忠に声を掛けるが、既に比企能員に釘を刺されていて、参加しないという。(私は、和田義盛と犬猿の仲であったので避けたのだと思う。)
 調子に乗る北条時政に対し、三浦義村は、「(佐々木秀義(注:1184年死去。享年73)は)もう死にました」、「(千葉常胤(注:現在82歳。1201年死去。享年84)は)もうすぐ死にます。じいさんはやめておきましょう」と釘を刺した。メンバーではない三浦義村がでしゃばって「じいさんはやめておきましょう」とアドバイスしたが、現在は1199年で、翌1200年には三浦義澄が病没(享年74)している。三浦義村には、「じいさんはやめておきたいのであれば、三浦義澄の替わりにお前が入れ」と言いたい。

⑨八田知家は、比企能員を訪ね、「話は聞いた。あんたの誘いに乗るってことは、誰かを敵に回すってことだ。その分の見返りはあるんだろうな」と言い、比企能員から砂金を受け取るも、「ただし、これで俺が比企に付いたと思ってくれるな。仲間にはならん。俺は俺だ」と牽制した。こうして側近は11人衆となった。

⑩北条時政は、足立遠元も加え、側近は12人衆となった。
足立遠元も畠山重忠同様、武蔵国の御家人であるが、比企能員は畠山重忠のように釘を刺さなかった。これを北条義時は「足立殿の一徹なところを見抜いて、言っても無駄だと思われたのでは」と分析した。(私は、足立遠元が北条時政の義父(2人目の妻の父)であったので避けたと思う。)なお、「一徹」は、まだ生れていない「稲葉一鉄」に由来するという説がある。

・無所属の文官4人衆
・嫌われ者で孤立する梶原景時
・北条派4人(北条時政、三浦義澄、和田義盛、足立遠元)
・比企派3人(比企能員、安達盛長、八田知家)
                            以上12名

⑪土肥実平は、「できれば、誘われてから断りたかった。本音を言えば、死ぬまでにもう一度、鎌倉殿のお役に立ちたい」と言ったが、北条義時は、「関わらない方が無難です。土肥殿は、いつだって仲裁役。遠慮したんだと思います」と慰めた。12人でも多いのに、人選候補を増やして13人では多すぎる。というか、土肥実平は、建久2年(1191年)11月25日に亡くなっている。脚本家は、笑いをとるために、幽霊を登場させたのであろう。時代考証の学者は3人もいると聞いているが、機能してる?(仕事の見返りにNHKが支払っているお金は、国民が払っている受信料から出ている。時代考証は1人でいいのに、3人分払っているのだから、頼むから、ちゃんと仕事してくれ。幽霊を登場させて笑いをとろうとする不謹慎な脚本家には忖度せず、言うべきことを言ってくれ。仕事してくれ。)

⑫有力御家人に打診したところ、12名が出揃ったと、北条義時は、側近の選定を快く思わない源頼家ではなく、北条政子に報告すると、北条政子は、了承するも、「ただ一つ、お願いがあるのですが。もう一人、加えてほしい人がいるの。十二も十三も一緒でしょ。頼家はまだまだ若い。嫌なことがあると、すぐに逃げ出してしまいます。叔父として側にいてあげて欲しいのです。十三人目は、あなたです」。こうして鎌倉殿の側近13人衆が誕生した。

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