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司馬遼太郎『覇王の家』を読む⑤

 以後、家康の代までこの家系はときにさかえたり、ときに衰えたりしたが、ともかくも三河国で3割ほどの面積を領分にし、岡崎城の城主であるほどの分限になっていた。しかし新興は新興でも、大名といえるほどの存在ではない。三河でのいくつかの大土豪のうちの代表的な存在というべきもので、ひとつ油断をし、働きがにぶると、戦乱のなかで消滅するかもしれない存在だった。
                     ──司馬遼太郎『覇王の家』


 ──なんと短いことか!

 私が『覇王の家』を書けば、初代親氏から始まって、8代広忠まで丁寧に描き、最後の一文は、

 ──こうして覇王の血は竹千代に引き継がれた。

で、8代広忠が討たれた時点で終了、長く書いても「桶狭間の戦い」後、松平元康が岡崎城に入った時点で終了にしますが、『覇王の家』(単行本)の松平家の描写は、3代信光~8代広忠が上の引用部分、5行で終わる。

松平①親氏─②泰親─③信光─④親忠─⑤長親─⑥信忠─⑦清康─⑧広忠

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 「司馬遼太郎戦国四部作」で最も有名なのは『国盗り物語』であろう。
 タイトルから分かるように、斎藤道三の物語である。これが大ヒットして、編集部から続編「織田信長編」を書くよう依頼され、
「斎藤道三については史実がはっきりしないから如何様にも書けるが、織田信長については史実がはっきりしているから勉強しないと」
と言って、戦国時代の猛勉強を始めたという。

 「司馬遼太郎戦国四部作」では、徳川家康について、「関ヶ原の戦い」でしか描いていないので、しかも、その本は、石田三成中心なので、「徳川家康についても書かねば」と、『覇王の家』を書いたという。なので『覇王の家』の内容は、「徳川家康とその家臣」であって、私が思っていた「松平家の歴史」ではない。(徳川家康を有名にしたのは、司馬遼太郎ではなく、山岡荘八である。)

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 『覇王の家』(背景は坂本の家)の単行本は前後2冊であるが、文庫本には1冊本と上下分冊本がある。1冊本は、文字が小さいが、持ち運ぶには便利である。

 ふと、文庫1冊本の厚さが『国盗り物語』(全4冊)の文庫本の1冊の厚さと同じことに気づいた。この松平家に対する司馬遼太郎の熱量の低さが、中山七名を奪い取ったのは「二代目の泰親のとき」とする凡ミスを呼んだのであろう。(文庫本でも修正されていない。)

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 私が戦国時代について書くとしたら、目標は、
「小和田哲男戦国三部作」
・『詳細図説 信長記』
・『詳細図説 太閤記』
・『詳細図説 家康記』
だな。でも、「私ならこう書く」という理想の
・『図説 豊臣秀吉』
が既に世に出てるから、織田信長版も徳川家康版も出ることでしょう。
待ちますよ。売れないブロガーの私が書く必要はない。

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