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明智左馬助と老狐

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落合芳幾『太平記英勇伝』(四十九)「明智左馬助光春」(1867年)

 光春、いまだ三宅弥平治と呼て浪人たる頃、六角家の被官・入江某と朋友たり。
 或時、相倶に日終(ひねもす)山野を狩ども獲物なく、会々(たまたま)穴中に老狐を視て討んと做(な)すに、白狐、拍(て)を合せて非命(ひめい)を歎く。光春、きかずして、一発に殺せしが、其老狐の眷属、入江の子・小七郎に祟(たたり)す。光春、往て、小七郎を膝下に敷居(しきすへ)、「汝、仇あらば、己(おのれ)に報へ奈何(いかん)ぞ。罪なき小七郎に祟すや」と、いきまき、あらく罵(のゝしる)にぞ、狐おのゝきする也。「唯(いゝ)」とのみ応(いらへ)して体を去(さり)たり。
 後、「光秀の一臂」とよばれ、惟任、志を果(はたす)に及んで、光春、安土にありしが、山崎の軍(いくさ)、心もとなく、手勢を卒して援に赴き、打出の浜にして、堀秀政と血戦し、衆、皆、討ちたるゝに及び、血地を開て、蒼々たる湖水に乗入しが、さながら平地を往(ゆく)ごとく、已(すで)にして坂本に入城し、名器を録して秀吉に送り、家室、長閑斉等と倶に自殺為せしが、その智、その勇、唯人(たれびと)がをしまざらん。


 明智左馬助光春が、まだ、三宅弥平次と名乗って浪人していた頃、六角氏の被官・入江某と親友であった。
 ある時、一緒に終日、山野で狩りをしたが、獲物がなく、偶々(たまたま)穴の中に老狐が居るのを見つけ、鉄砲で撃とうとすると、その白狐は、手を合わせて、非命(思いがけない災難で死ぬこと)を嘆いた。明智左馬助光春は、(老狐の命乞いを聞かず、)一発で仕留めた。その老狐の眷属(手下の狐)は、入江某の子・入江小七郎に憑依して祟った(狐憑き)。明智左馬助光春は、入江某の屋敷へ行き、入江小七郎を膝で押さえ、
「お前、仇討ちをしたいのであれば、俺に憑けば良い。なぜ罪の無い入江小七郎に憑くのだ」
と、息巻き、荒く罵ったので、手下の狐は、戦(おのの)き(恐怖で体が震え)、
「はい」
とのみ返事して、入江小七郎の体から出ていった。
 後に、明智左馬助光春は、惟任日向守光秀(明智光秀)の一臂(片腕)と呼ばれ、惟任日向守光秀が志を果たすと(本能寺で織田信長を討つと)、明智左馬助光春は、安土城にいたが、山崎合戦が心配で、手勢を率いて支援に赴こうと、「打出浜」(うちいでのはま。滋賀県大津市松本町付近の琵琶湖岸)で、秀吉方の堀秀政と戦い、敵を討ち取って血路を開き、青々とした琵琶湖に馬に乗ったまま入った(「左馬助の湖水渡り」)。まるで馬に乗って大地を駆けるが如く、既に坂本城に入城し、名宝が失われる事を惜しみ、目録を制作して、秀吉方の堀秀政に託して秀吉に送った。(堀秀政が、「惟任日向守光秀の秘蔵刀「倶利伽羅郷」が無い」と言うと、明智左馬助光春は、「死出の旅の供にして、あの世で惟任日向守光秀に渡す」と応えて、坂本城に火を放ち、)家室(惟任日向守光秀の正室?)、三宅入道長閑斉(明智十平次光廉)等と共に自殺したが、その知恵、その勇気を(知恵と勇気を併せ持つ英勇が自害したことを)誰もが惜しんだ。


 ── やれ打つな  蠅が手をする足をする (小林一茶)

 狐に苦しませること無く、1発で仕留めるのは流石です。ただ、手を合わせて命乞いをする狐を撃つのはちょっと残酷ですね。助けてあげれば、恩返しを期待できるのに(おいおい、そこかよ)。茶色の普通の狐ならともかく、白狐ですから、神の使いの可能性が高いわけで、普通は撃たないと思います。(剥製にすれば高く売れる?)
 狐に憑かれた場合、狗神神社などの寺社でお祓いか、祈祷師(修験者、霊能力者)による除霊が普通です。犬と戦わせるのもいいかもしれませんが、恫喝して追い出してしまうとは・・・流石、剛将ですね。

※出典:『真書太閤記』
「明智左馬之助白狐を討つ事。幷、入江長兵衛始終の事」
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/881311/60

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