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【築山殿異聞】築山殿は水戸で殺された。

 通説では、築山殿を殺した野中重政(堀江為清の孫。野中氏初代。家紋は三日月)は、故郷の堀江村(静岡県浜松市西区協和町)で蟄居したが、子孫は水戸藩士になっている。

 茨城県水戸市には、「築山殿は醜女(しこめ)で、ヒステリック。水戸で殺された」という伝承が残っている。ヒステリックという伝承は他にもあるが、醜女という伝承は水戸だけかも。(詳細は後述。)


■『徳川実紀』

 勝賴は當家、北條と隣好をむすび給ふと聞て大におどろき、「さきむぜざれば、吾、亡ぶる事近きにあらん」とて、さまざま謀畧をめぐsらしける事ありし中に、築山殿と申けるは、いまだ駿河におはしける時より、年頃定まらせたまふ北方なりしが、かの勝賴が詐謀にやかゝりたまひけん、よからぬことありて、八月二十九日、小藪村といふ所にてうしなはれ給ひぬ。
(「野中三五郞重政といへる士に「築山殿討て進るべし」と命ぜられしかば、やむ事を得ず討進らせて、濵松へ立かへりかくと聞え上しに、「女の事なれば、はからひ方も有べきを、心をさなくも討取しか」と仰せければ、重政、大におそれ、是より蟄居したり」とその家傳に見ゆ。これによれば、ふかき思召ありての事なりけん。是れを村越茂助直吉とも、又は、「岡本平右衛門、石川太郞右衛門の兩人なり」としるせし書もあれど、そは、あやまりなるべし。)

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