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訣盃の跡清井田に清水わく

1.城藪稲荷

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 川の合流点を、上流の人は「川合(かわい)」、下流の人は「二俣(ふたまた)」と呼ぶが、長篠では「渡合(どあい)」という。
 川の合流点には「川合(かわい)社」と呼ばれる神社が建てられることが多い。最も有名なのは、賀茂御祖神社(下鴨神社)の第一摂社・河合神社(川合社、河合社、只洲社、糺の宮、小社宅神社、鴨川合坐小社宅神社と別名が多い神社)であろう。

 長篠にも神社があったのではないかと思われる。私が知る範囲では、城藪稲荷があり、御祭神の眷属は、「おとら狐」と呼ばれていたいう。
 城には城鎮守稲荷として城山稲荷が祀られることがある。稲荷神は、神道系の五穀を司る宇迦之御魂神(倉稲魂命)と、豊川稲荷など仏教系の荼枳尼天(辰狐王菩薩、貴狐天王)があるが、城山稲荷の御祭神は、怨敵退散、戦勝を祈願するための荼枳尼天である。

 現在、城藪稲荷は、国道151号線を越えた大通寺に遷座している。

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■城藪稲荷(現地案内板)
 長篠城鎮守の稲荷のお使いであった、おとら狐を祀る。
 長篠の戦いの後、本社は城の移転にともなってうつり、もとの稲荷は末社として残された。
 ところが残された末社を誰も祀らなくなったため、おとら狐はこれを恨み周辺を荒らしまわったり、人に取りついて重い病とした。
 そこで人々はこれを鎮めるため、おとら狐を城藪稲荷として祀ったと伝えられる。
 現在では、様々な願いをかなえて下さるお稲荷様として厚い信仰を集めている。
 長篠古城址が文化財として保全されるにあたり、平成18年に大通寺境内に移転、安置された。

 おとら狐は、「長篠の戦い」の時、城中の評定を立ち聞きして左足を斬られ、流れ弾が当って片目になったという。「長篠の戦い」の後、長篠城主・奥平貞昌は、傷んだ長篠城を再建せずに新城(「新城市」の由来)を建てて移ったので、おとら狐は、寂しくなり、近くの家でいたずらをしたり、人に憑いて「長篠の戦い」の思い出話を語るようになったりしたという。

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 この大通寺には「城藪稲荷」以外にも見所満載である。

2.大通寺裏の盃井戸

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 とはいえ、最も有名なのは「杯井」であろう。

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■「大通寺と盃井戸」(現地案内板)
達磨山大通寺は応永18年(1411)の創立と伝えられるが、天正時代の兵乱で焼失し、後に琴室契音大和尚(長篠山医王寺2世)が曹洞宗に改宗し、地蔵大菩薩を本尊として草創開山した。
 天正3年(1575)の長篠の戦の時には、武田軍の武将馬場信房、武田信豊、小山田昌行らの陣地となり、設楽が原に出撃して織田・徳川の連合軍と決戦することになった時、諸将がこの寺の井戸に集まり、その水をかわし合って訣別の盃として出陣して行った。その後このことから盃井戸と呼ばれている。

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■大通禅寺杯井(現地案内板)
 5月19日医王寺山本陣で軍議を終えた諸将は、それぞれの自分の陣地へ戻った。
 馬場信房(信春)は、決戦回避を主張して果たせなかった同志の将、内藤昌豊、山県昌景、土屋昌次らを自分の陣所である大通寺山に同道して、まずはこの日の軍議を嘆き、このような事態になった上は、明日の一戦は一命を賭して戦うだけである。共に信玄公に引き立てられ、勝頼公の今に至るまで戦場を疾駆したことは数え切れないが、幸い今日まで命を永らえた。けれども、明日の一戦は最後となろう。とお互いに旧友を謝し、明日の奮戦を誓い、今生の別れとして泉の水を馬柄杓で汲み寄せ、腰に挟んだ水呑みを以てこれを飲んだ。

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■盃井歌碑(現地案内板)
盃の井にて 浩
これまでと汲みかはしたる盃の
  みづもみにしむ長篠の里
 この歌は明治13年12月、当時名古屋鎮台の参謀山川浩大佐(後に陸軍少将男爵貴族院議員)が現地を訪れた時詠まれたものである。
  長篠古戦場   川田順
甲斐の諸将水さかづきに汲みたりし 清水と聞くを蠑螈(いもり)這ふなり

 「水杯(みずさかずき、水盃)」とは、二度と会えないかも知れない別れの時などに、酒の替わりに水をついで、杯を回し飲みすることである。
 「大通寺の泉の水で武田軍の武将が水杯を交わした」ということは、『長篠日記』や『四戦紀聞』に載っている。

■阿部四郎兵衛『長篠日記』
 之に依り、武田勢、大川を越へ支度なり。猿橋の鵜口と云ふ所に一本橋を渡し、長篠橋を思ひ思ひに向ひの原へ越す。家老中申すわ、「此の大軍を引き請け、後に大川を構え、一本橋を掛け、諸卒の通路、成り難し。武田の家運も尽き、是れ迄也」迚(とて)、「今生の遑乞(いとまごひ)せん」とて、大通寺山に清水の有るを汲み、馬柄杓(まびしゃく)にて水酒盛をして、「互ひに申し合はせたる事も是迄也」と、名残の泪を流し、岩代川を越したり。

 これにより(武田勝頼が徳川&織田連合軍と戦うことに決めたことにより)、武田軍は岩代川を越える準備を始めた。猿橋の鵜ノ口(「岩代の鵜ノ口」の誤り。「猿橋」「鵜ノ首」はもっと上流)に一本橋(丸太1本の橋)を架け、長篠橋(岩代橋)を思い思いに渡って、対岸の設楽原へ向った。武田家の家老達は「徳川&織田連合軍と戦うことに決め、背後に岩代川という「背水の陣」を構え、一本橋だけでは軍勢の通路には足りない。武田家の家運は尽き果た。もはやこれまでである」と言い、「今生の別れだ」と言って、大通寺山の清水を汲み、馬柄杓(馬上杯。馬に乗りながら水を飲む時に使う食器)を盃として、「互いに申し合わせた事(武田勝頼に天下を取らせる事)もこれまでだ」と、名残りの涙を流し、岩代川を越えた。

※「かるた看板」の「う」:鵜の首をわたりて押し出す武田勢

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 上の「長篠・設楽原の戦い史跡案内図」(有料)では、武田軍の渡河点を「鵜ノ口」と「岩代橋跡」の中間とする。

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 豪商・望月喜平治は、明治10年(1877年)~明治19年(1886年)、巨額の私費を投じて荷車などの通行が可能な「望月街道」(新城市長篠岩代~新城市川合。全長14km)を開いた。

■『四戦紀聞』「参州長篠戦記」
 是非戦を決せんと勇みけるこそ誠に愚昧(ぐまい)の至り、運の極みなれ。武田の功臣、眉を顰(ひそ)め、馬柄杓を以て大通寺山の泉を汲みて呑み通はし、必死を盟ふ。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2568321/15

(状況を冷静に判断せず)何が何でも決戦するというのは実に愚昧(ぐまい)の至り、運が尽きたと、武田軍の功臣たちは眉を顰め、馬柄杓で大通寺山の泉の水を汲んで、呑み回し、死を覚悟して戦うことを誓い合った。

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 どちらの史料も、「大通寺山の泉で水盃を交わした」とあるだけで、そのメンバーの名前は書かれていない。大通寺山陣地にいた「武田の功臣」であろうか。「家老たち」とすると、馬場信春、山県昌景、内藤昌豊、土屋昌次(馬場信春、山県昌景、内藤昌豊、高坂昌信で「武田四天王」「武田四名臣」)であろうか。

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