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『鎌倉殿の13人』(第3回)の予習 「なぜ源頼政は「以仁王の乱」の時に以仁王を支援したのか?」

 少し予習した。

 あさっての『鎌倉殿の13人』(第3回)で扱われる「以仁王の乱」は、以仁王と源頼政によるクーデーターであるが、実行前に発覚したため、準備不足で、奈良へ逃げ込む途中、宇治平等院で源頼政は自害し、以仁王も討たれた。

「以仁王の乱」の謎は、
「なぜ以仁王がクーデーターを起こそうとしたか」
というより、
「なぜ源頼政はクーデーターの中心人物になったか」
である。
 以仁王の動機は「自分が天皇になれず、若い安徳天皇=傀儡天皇の即位への怒り」、源頼政の動機は「傀儡天皇の即位による平氏政権の誕生を、源氏として阻止」とするのは、あまりにも単純である。

━━真実は教科書には書かれていない。

 源頼政は、弓の達人で、鵺退治をしたことで知られるが、
①源頼朝の父・源義朝を見捨てた。
②平清盛に擦り寄って(和歌を送り)従三位をもらった。
③最後は恩ある平清盛に敵対して戦った(「宇治川の戦い」)。
と人気が無い。
そもそも、
①平清盛と結びついて位が高い。
②昨年出家した。
③77歳(満76歳)と高齢。
の源頼政は、何が不満で挙兵したのだろうか? 従三位になった人に「埋もれ木の花さくこともなかりし」なんて言われたくない。

想像するに、源頼政は、天皇家側の人間であり、平家側の人間でもあったが、
 天皇家>平家
であって、
 以仁王>平清盛
となったのであろう。

━━平清盛の独裁に耐えられなかった。

というのは、天皇の即位まで口を出して、「幼い孫を安徳天皇にした」ということであるが、トンデモ論として、「幼い孫娘を男と偽って安徳天皇にした」のを耐えられなかったという。

 源頼政は、芝の上に扇を置き(「扇の芝」)、辞世を詠み、郎党・渡辺唱(となう)の介錯で腹を切って自刃した。享年77。
 首は郎党・猪早太が宇治川に流し(一説に美濃国に運び)、首の無い胴体は、郎党・猪早太が、鵺退治で拝領した領知・京都府亀岡市西つつじヶ丘の「頼政塚」に運んだというが、諸説ある。

■「扇之芝」(現地案内板)
治承4(1180)年5月26日、源頼政は高倉宮以仁王を奉じて平家打倒に立ち上がり、平知盛の大軍を宇治川に迎え撃ちました。しかし戦利なく、流れ矢に傷ついた頼政は軍扇を開き、「埋もれ木の花咲くこともなかりしに身のなる果てぞ哀れなりける」と時世の一首を残し、この地で自刃したと伝えられています。
(墓所は最勝院境内にあります。)
■「源三位頼政の墓」(現地案内板)
源三位頼政、平清盛の横暴を憤り高倉宮以仁王の令旨を奉じ平家打倒の義兵を挙ぐ。治承4年(西暦1180年)5月26日 頼政三井寺の僧兵と共に宇治に在り。
平知盛大軍を率いて宇治に迫る。頼政衆寡敵せず大敗す。頼政平等院内に於いて自刃す。時に頼政76歳の老齢なり。
辞世
  埋もれ木の花さくこともなかりしに
   みのなるはてぞ 悲しかりける
■頼政塚(現地案内板)
 源頼政は、兵庫県川西市周辺に広がる、摂津多田庄を本拠とする源満仲の長男で、大江の鬼退治で知られる源頼光の子孫です。頼政もまた弓の名手として知られ、禁裏に夜な夜な現れる鵺に悩まされた近衛天皇の命により、弓矢で見事退治しました。その恩賞として丹波に領地を賜りますが、弓矢の功績で得たことから、「矢代庄(矢田庄)」と呼ばれました。 
 世は平家一門の専横の時代、頼政は、治承4年(1180)以仁王の令旨をもって平家打倒の兵を挙げます。この時、田野町の神蔵寺の僧兵も呼応し馳せ参じましたが、その利無く宇治川の合戦で自刃しました。その亡骸は、郎党の猪早太が領地であった矢代荘に持ち帰り、この地に葬った塚が頼政塚です。
 この塚上には、亀山藩の家老松平新祐戸敏房の撰文による「従三位源公之墓」と刻された石碑にその由緒が刻されています。

 こうして、名門・摂津源氏は衰退し、河内源氏が台頭する。

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