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第24回の再放送を観た。

※「セレナーデ」のヒロインは、摂食障害で悩んでいる高校3年生の
https://kadobun.jp/special/uru/serenade/

今回の『鎌倉殿の13人』(第24回)「変わらぬ人」は、1193年~1197年までを一気に描いた。解説記事は、要点のみ書いたつもりが、1万文字を軽くこえてしまった。
この記事では、書き漏らした小ネタを提供。

■小ネタ集


◎比企の紙「小川和紙」

 北条義時邸(旧・安田義定邸?)にいる比奈に、比企尼に頼んでおいた「比企の紙」(埼玉県比企郡小川町の小川和紙)が届けられた。

※安田義資(甲斐源氏):建久4年(1193年)、息子・義定のラブレター事件で所領を没収され、遠江国守護も解任された。翌・建久5年(1194年)、謀反の疑いで梟首され(「永福寺事件」。享年61)、鎌倉の邸宅は北条義時邸となった。

 宝亀5年(774年)の「正倉院文書」に「武蔵国紙四百八十張、筆五十管」(武蔵国から紙480枚と筆50本が納められた)とあり、武蔵国で紙の生産が行われていたことが分かる。武蔵国のどこで紙の生産が行われていたか不明であるが、承和8年(841年)5月7日の「太政官符」に、男衾郡(比企郡小川町から和田川流域にかけての一帯)の郡司・壬生吉士福正が大量の紙を納めたとあることから、古代から小川盆地は、和紙の生産地であったことが分かる。

https://www.town.ogawa.saitama.jp/category/4-2-1-0-0.html
https://kamisukinomura.web.fc2.com/index.htm
http://www5f.biglobe.ne.jp/~kodai-musashigaku/newpage30.htm

◎『貞観政要』(じょうがんせいよう)

 北条泰時が読んでいた本。
 唐の呉兢が編纂したとされる太宗の言行録で、帝王学の教科書とされてきた。「貞観の治」と称される理想的な政治を行なった唐の太宗が傑出していたのは、臣下の直言を喜んで受け入れ、常に「最善の君主であらねばならない」と努力したところにある。(中国では、太宗のように諌官の忠告を真面目に聞き入れていた皇帝は極めて稀で、皇帝の怒りに触れて左遷されたり、殺される諌官が多かった。 )
「長期政権の基本が書いてある本」として遣唐使が日本に持ち帰り、北条政子が菅原為長に命じて和訳させ、承久3年(1221年)頃に献本したというから、北条泰時が読んでいたのは『仮名貞観政要』ではなく、原本(漢文)である。

■『吾妻鏡』「建暦元年(1211年)7月4日」条
 建暦元年七月大四日癸丑。霽。將軍家、令讀合貞觀政要給。

(建暦元年(1211年)7月4日。(曇っていたが)晴れる。将軍・源実朝は、『貞観政要』の読み合わせをした。)

この『仮名貞観政要』の最古写本が、『仮名貞観政要(梵舜本)』である。

※橋村勝明「『仮名貞観政要』の和訳語について

◎陳和卿(ちんわけい / ちんなけい)

 中国、南宋の工人(職人、匠)。平安末期に来日。1180年(治承4)平重衡の兵火によって焼失した奈良東大寺の再興にあたった俊乗坊重源に招かれ、頭部や両手を損傷した大仏の修理を行った。

 源頼朝は、東大寺へ行ったついでに陳和卿に会おうとしたが、陳和卿に「多くの人を殺した。業が深い」として断られた。これに反し、陳和卿は、源実朝には、自ら鎌倉に会いに行き、建保4年(1216年)6月8日に現れると、6月10日には源実朝に会い、「自分の前世が医王山阿育王寺で学んでいた時の師が源実朝の前世だ」と言うので、源実朝は「宋の医王山阿育王寺へ行こう」と思い立ち、船を作らせたが、浮かばなかった。

○源頼朝と陳和卿

■『吾妻鏡』「建久6年(1195年)3月13日」条
建久六年三月大十三日戊戌。晴。將軍家、御參大佛殿。爰陳和卿爲宋朝來客、應和州巧匠。凡厥拝盧遮那佛之修餝、殆可謂毘首羯摩之再誕、誠匪直也人歟。仍將軍以重源上人爲中使、「爲値遇結縁、令招和卿給」之處、「國敵對治之時、断人命、罪業深重也。不及謁」之由、固辞再三。將軍抑感涙。奥州征伐之時以所着給之甲冑。并鞍馬三疋金銀等被贈。和卿賜甲冑爲造營釘料。施入于伽藍。止鞍一口。爲手掻會十列之移鞍。同寄進之。「其外龍蹄以下不能領納」、悉以返献之云々。

(建久6年(1195年)3月13日。晴れ。将軍家(源頼朝)は、東大寺大仏殿を参拝した。ここに陳和卿が、宋からの来客としていて、日本の巧匠(工人)の求めに応じて(指導して)いた。その毘盧遮那仏(奈良の大仏)の修理の出来を見ると、毘首羯摩(びしゅかつま。帝釈天の侍臣で、細工物や建築をつかさどる神)の生まれ変わりと言えた。本当に只者ではない。それで源頼朝は、重源上人(奈良東大寺の再興にあたった俊乗坊重源)に仲立ちしてもらい、「仏縁ある者に会いたい」と陳和卿に伝えたが、陳和卿は、「国の敵として平家を退治した時に、人命を断っており、その罪業は深く重い。謁見したくない」と、何度も辞退した。源頼朝は感動の涙を抑え、奥州征伐の時に着た甲冑と鞍を乗せた馬3頭と、金銀を贈った。陳和卿は、いただいた甲冑を大仏殿建立の釘代として東大寺に納めた。鞍1つを手掻会(東大寺の鎮守・手向山八幡神社の祭礼。東大寺転害門(てがいもん)を渡御の御旅所とする)の十列(10頭の馬による競馬)の移鞍(うつしぐら。祭礼に使用する鞍)として、同様に東大寺へ寄付した。それ以外の龍蹄(駿馬)は「受け取る訳にはいかない」と、全て返却したという。)

○源実朝と陳和卿

■『吾妻鏡』「建保4年(1216年)6月8日」条
建保四年六月大八日庚寅。晴。陳和卿參着。是造東大寺大佛宋人也。彼寺供養之日、右大將家、「結縁給之次、可被遂對面」之由、頻以雖被命、和卿云、「貴客者、多令断人命給之間、罪業惟重、奉値遇有其憚」云々。仍遂不謁申。「而、於當將軍家者、權化之再誕也。爲拝恩顏、企參上」之由申之。即、被點筑後左衛門尉朝重之宅、爲和卿旅宿。先令廣元朝臣問子細給。

(建保4年(1216年)6月8日。晴れ。陳和卿が(鎌倉に)来た。この人は、東大寺の大仏を修理した宋の人である。東大寺落慶供養の日(建久6年(1195年)3月12日)に、右大将家(源頼朝)は、「結縁のついでに、陳和卿に会いたい」と何度も命令されたが、陳和卿は「あなたは、多くの人の命を断っているので、罪業を思うに重く、値遇(会う事)は憚られる」と言ったという。それで、遂に、謁見しなかった。「しかし、現在の将軍家(源実朝)は、仏様の再誕なので、お顔を拝見したいと参上した」と言ってきたので、筑後朝重の邸宅を陳和卿の旅宿とし、先ず、大江広元を遣わして、子細を聞いた。)

■『吾妻鏡』「建保4年(1216年)6月15日」条
建保四年六月大十五日丁酉。晴。召和卿於御所、有御對面。和卿三反奉拝、頗涕泣。將軍家、憚其礼給之處、和卿申云。「貴客者、昔爲宋朝醫王山長老。于時吾列其門弟」云々。此事、去建暦元年六月三日丑尅、將軍家、御寢之際、高僧一人入御夢之中、奉告此趣。而、御夢想事、敢以不被出御詞之處、及六ケ年、忽以符号于和卿申状。仍、御信仰之外、無他事云々。

(建保4年(1216年)6月15日。晴れ。陳和卿を御所に呼び、対面した。陳和卿は、3度拝み、泣きじゃくった。将軍家(源実朝)は、その篤い礼に照れていると、陳和卿が言うには、「あなたの前世は、宋朝の医王山阿育王寺の長老(開祖)である。その時、前世の私は、門弟であった」と。この事であるが、建暦元年(1211年)6月3日の深夜2時頃、将軍家(源実朝)が寝ていると、高僧が1人、夢に出て、この事を告げいたのである。しかし、夢の事であるので、あえて誰にも言っていなかったが、それから6年たった今日、陳和卿の言う事と一致した。それで、信仰する以外に何事もなかった(ますます信仰した)という。)

◎「青白磁獅子鈕蓋水注」 北宋時代 景徳鎮窯

景徳鎮窯(江西省)の青白磁



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