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「鎌倉殿の5人」

先日の『鎌倉殿の13人』「鎌倉殿と十三人」において、北条義時が「鎌倉殿の13人」のメンバー紹介をし、梶原景時が、
「これより訴訟取り次ぎはこの13人によって執り行います」
と言うと、源頼家は、
「平三、聞いていた話とは違うな。むしろ誰か1人に力が集まらないので、好都合だ。のう、小四郎。しかし、私は騙されない。丸め込んだつもりでいたかもしれんが、小四郎、端からわしはお前たちを信じてはおらぬ。父上は最後まで御家人に心を許してはおられなかった。わしも同じだ。平三、残念だ」
と言って6人の若武者を招き入れ、
「わしが選んだ。手足となって働いてくれる者たちだ。信じられるのは、こやつらだけよ。これより、わしの政はわしとこの者たちで行う。もちろん、お前達と切磋琢磨してのことだ。新しい鎌倉を、皆で築いて参ろうではないか」
と言った(ニヤリ)。

選ばれた13人の経験豊かな宿老「鎌倉殿の13人」に対抗して、鎌倉殿(源頼家)は、自ら選んだ若者集団「鎌倉殿の6人」(リーダー・北条時連と小笠原長経、比企宗朝、比企時員、中野能成、北条頼時の5人)を紹介した。

──わしの政はわしとこの者たちで行う。

この若き6人衆は「政策集団(ブレーン)」なのか?
単なる武闘集団(ボディガード)に見えるが。

※養和元年(1181年)、源頼朝は寝所を警護する11名を選んだ(『吾妻鏡』「養和元年4月7日」条)。この個人的な側近(親衛隊)は「家子」と呼ばれ、門葉(源氏血縁者)と御家人の中間に位置づけられた。北条義時は、その中でも「家子の専一」とされた(『吾妻鏡』「宝治2年閏12月28日」条)。

普通は小笠原長経、比企宗朝、比企時員、中野能成、北条時連の5人で「近習5人衆」(大河ドラマ『草燃える』では「5人組」)という。これを『吾妻鏡』ではどう書いているのかというと、

建久十年四月大廿日辛巳。爲梶原平三景時、右京進仲業等奉行、書下政所云。「小笠原弥太郎、比企三郎、同弥四郎、中野五郎等從類者、於鎌倉中、縱雖致狼藉、甲乙人敢不可令敵對。若、於有違犯聞之輩者、爲罪科、慥可尋注進交名之旨、可觸廻村里之由。且、彼五人之外、非別仰者、諸人輙不可參昇御前」之由云々。

(建久10年(1199年)4月20日。梶原景時と中原仲業が奉行(担当者)として、政所に張り紙をして告知した。「『小笠原長経、比企宗朝、比企時員、中野能成らの従類(従者や親族)は、鎌倉の中においては、たとえ狼藉を致しても、甲乙人(一般庶民)は、敢えて敵対してはいけない。もし、違反を聞いた者は、罪人として違反者の名前を調べて報告するように』と村里へ触れ回るように。かつ、この5人以外は、特別な仰せがなければ、諸人は源頼家の御前に参上できない」という。)

『吾妻鏡』「建久10年(1199年)4月20日」条

「彼五人」としながらも4人しか書かれておらず、北条時連の名が無い!

「正治元年(1199年)7月26日」条でも、「小笠原弥太郎長經。比企三郎。和田三郎朝盛。中野五郎能成。細野四郎。已上五人之外。不可參當所之由被定云々」(小笠原長経、比企宗朝、和田朝盛、中野能成、細野四郎の以上5人は建物に近づけなかった)とある。5人で、やはり北条時連の名は無い。

「正治元年(1199年)8月19日」条には、「景盛貽怨恨之由訴申之。仍召聚小笠原弥太郎、和田三郎、比企三郎、中野五郎、細野四郎已下、軍士等、於石御壷、可誅景盛之由有沙汰」(「安達景盛が源頼家に恨みを持っている」と訴えがあった。それで、小笠原長経、和田朝盛、比企宗朝、中野能成、細野四郎以下の軍人を石壷(石を配置した中庭)に呼んで、「安達景盛を誅殺せよ」と命じた)とある。「鎌倉殿の5人」は、「鎌倉殿の13人」に対抗して組織された文官(政策集団)ではなく、武人(ボディガード)であろう。

学者は「北条時連の名が無いのは、北条氏に対する忖度である。『吾妻鏡』では源頼家を暗君だと描いている。暗君なのは、側近(ブレーン)が悪いからである。それで源頼家の側近から北条時連の名を消した」とする。

──そうであろうか?

もしそうであれば、「鎌倉殿の13人」から北条時政と北条義時の名を消すと思うよ。

私の考えを書いておく。

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