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柳田国男『山島民譚集』馬蹄石「駒形権現」

「駒ヶ岳」という山名の由来

①残雪の形が駒
②日本馬(東日本)の馬牧があった(輸入馬(西日本)の馬牧は海岸や島)
 →よって駒形神社(そうぜん(蒼前、勝善など)様)は東日本に多い。
③山容が駒(峠を「鞍部」という)

■白羽神社(静岡県御前崎市白羽)
仁明天皇承和4年(838年)2月、元宮である岬の「駒形神社」より遷る。『延喜式』に載る「白羽官牧」の地と伝えられ、旧社地の「駒形神社」は、往古沖で遭難した90頭の馬の内、1頭が岸にたどりついた地とされる。残りの馬は沖の「御前岩(駒形岩)」と化したと云う。式内「服織田(はとりだ)神社」とも云われ、旧縣社として古くより信仰が厚い社である。また当社は、往古は馬をお祀りしていた。これは、「龍神信仰」によるもので、「海辺では名馬が育つ」と信じられたため。
http://www.shizuoka-jinjacho.or.jp/shokai/jinja.php?id=4408001
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※式内・服織田神社は、服織田神社(静岡県牧之原市静波)であろう。白羽神社を式内・服織田神社だとするのは、白羽神社の本来の御祭神(現在の御祭神は海神三神)を織物の神・天白羽神と考えたからであるが、「白羽」を「しらは」と読まずに「しろわ」と読むのは、創建時の御祭神が「白和龍王(しろわりゅうおう)」という竜神だからだという。

馬跡石は駒形神が乗った馬の足跡であり、神そのものではない。
駒形神社の馬跡石は御神宝であって、御神体ではない。

※馬の守護神:駒形大神(そうぜん様)
 ・駒形大神=馬頭観音の正体(真実の身)(「神本仏迹」)
 ・馬頭観音=駒形大神の本地仏(真の姿)(「本地垂迹」)
 ・駒形大神=馬頭観音の垂迹神(仮の姿)(「本地垂迹」)

駒ヶ岳に木俣大神(保食神)が祀られ、駒形神社と称した。

※「木俣」は「きのまた」と読むが、「こまた」と読んで「こまがた」になったか?

※駒形神は、駒ヶ岳を御神体として、神が乗る神馬を祀り、その神馬に乗って神が降臨することを願う信仰に端を発する。神が駒に乗った時のお姿は「逆Y字」に見える。このYを木の股に見立てた?
(女神(保食神)が駒に乗ると、駒を産んでいるように見える。)

※木俣大神=保食神→死んで、頭から馬(駒形神)
(『日本書紀』によれば、保食神(女神)の屍体の頭から牛馬、額から粟、眉から蚕、目から稗、腹から稲、(女神だけに)陰部から麦、大豆、小豆が生まれた。東南アジアを中心に世界各地に見られるハイヌウェレ神話型の説話であるが、「頭から馬」からは、駒形神や馬頭観音と同一視できる。)

■新井白石『東雅』
保食神殺されし後に、馬牛と化れる事、舊事紀に見えたり。其後、大己貴神の倭國に上り給ひし時、御馬の鞍に手をかけられしなど、古事記に見えしは、此時旣に馬に駕する事ありけるなり。又、舊事紀に、素戔烏神、天斑駒を逆剝にし給ひしと見えしかば、駒を呼びてコマといふことも、其代に聞えしなり。古事記には天斑馬としるしたれば、かよはしては馬とも駒とも云ひしなるべし。ムマといふ義詳ならず、コマは卽小馬也。

ただし、駒形神社では、「祭神不詳だが、「駒」は(日本馬=小馬ではなく)高麗」だとする。

■駒形神社(岩手県奥州市水沢中上野町)
駒形という名称は、古く赤城神社をカラ社と呼んだ歌があり、コマをカラと歌った。当時の朝鮮は高麗朝時代であり、文化伝来の憧れの国でもあったのでコマということばを用い世間に誇示した。箱根山縁起の箱根神社が駒形神社を奉祀するのは、朝鮮から高麗大神を勧請したと記載しているのと同様である。このように赤城の神は駒形の神とも言える。
http://komagata.iwate.jp/

以上が私の理解です。
さて、柳田國男の解釈は・・・?

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