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2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(第15回)「足固めの儀式」


■源頼朝追放計画「鎌倉事変」


 鎌倉が源頼朝派と反源頼朝派の2つに割れた。
 源頼朝派は、上洛して後白河法皇と手を結んで平家を倒そうとし、反源頼朝派は、坂東に留まって自分の領地を守ろうと主張していた。
 反源頼朝派は、万寿(後の源頼家)の「生後500日の足固めの儀式(お立ち初め)」と呼ばれる架空の通過儀礼を行い、祭儀場である鶴岡八幡宮と大倉御所を武士で取り囲んで訴えるという「御所巻」を行おうとした。(万寿は寿永元年8月12日生まれなので、500日後は永寿2年の年末?)
 「生後100日の歯固めの儀式(お食い初め)」はあるが、「足固めの儀式」は聞いたことがない(足を固めたら、膝が固定されて曲がらなくなるのでは?)と怪しんだ源頼朝派は、鶴岡八幡宮取り巻きグループは北条義時が、大倉御所取り巻きグループは上総広常が対処し、無事に「鎌倉事変」を鎮めた。
 この後、北条政子は「あなたたちがそこまで思い詰めていたとは、存じませんでした。恥ずかしい限りです」と詫び、「私もあの戦で兄を失いました。命をかけて戦う者たちのおかげで、今の鎌倉があることを忘れはしません。これからは鎌倉殿に言えぬことは私にお話しください。できることは、なんでもやらせてもらいます」と言って、御家人の高評価を得た。
 一方、鎌倉殿・源頼朝は、「私(主君)を追い出そうとしたのは大事件であり、誰も罰せずに済まされない」とし、御家人たちを集めて、大江広元がその忠誠を疑っている梶原景時に上総広常を見せしめとして殺させ、「源義仲が後白河法皇を幽閉した(「大住寺合戦」)。(源義仲は朝敵となったので、私を殺して、源義仲の子・義高を鎌倉殿として立てれば、そたなたちは朝敵となり、攻められるであろう。)今こそ源義仲、さらには平家を討とうではないか。戦功に応じて平家から奪った土地を与える。今こそ天下草創の時。わしに逆らう者は何人も許さぬ。肝に銘じよ!」と大声をあげた。
 こうして上総広常は亡くなり、金剛(後の北条泰時)が生まれ、「ぶえぇ」と泣いた。(金剛がこの年に生まれたことは確かであるが、月日は分からない。上総広常の誅殺は12月22日であり、金剛が上総広常の誕生後に生まれた可能性(金剛が上総広常の生まれ変わりである可能性)は低い。)

■上総広常暗殺事件


(1)『鎌倉殿の13人』のストーリー


 実によく出来たシナリオで、「神回」であった。黒幕は大江広元だと思っていたが、源頼朝だったとは、超衝撃! タイトルの「足固めの儀式」は、視聴者に、反源頼朝派が考えた「万寿が健脚になるための儀式」と思わせておいて、最後に、源頼朝が逆手にとって、「上総広常を見せしめに殺し、鎌倉を1つにまとめる地盤固めの儀式」(鎌倉の地鎮式の人身御供に、最も強力な御家人を選択)であることが分かった。
 そして、願文を、文字を調べながら一生懸命書く上総広常がいじらしい。(私なら、右筆に書かせて、それをお手本として模写するけどね。ちなみに、木曽義仲が「俱利伽羅峠の戦い」の直前、戦勝を祈願して奉納した願文「木曽願文」(埴生護国八幡宮蔵)は、木曽義仲の右筆・大夫房覚明が書きました。)願文を読んだ源頼朝は、『吾妻鏡』には、「被加誅罰事、雖及御後悔、於今無益、須被廻没後之追福(罰を加えたことを後悔したが、今となっては無意味なので、追善供養を行った)」とあるが、『鎌倉殿の13人』の源頼朝は、「あれは謀叛人じゃ」と弱弱しい声で自分に言い聞かせて終わった。
 史実はというと、「足固めの儀式」や「鹿狩り」と称して兵を集めたという記録はないし、この時期の大江広元は京都にいて鎌倉にはいない。
 また、「御所巻(ごしょまき)」は、室町幕府において諸大名の軍勢が足利将軍の御所を取り囲み、幕政に対して要求や異議申し立てを行った行為であり、この時代にはまだ行われた例がない。
 上総広常を梶原景時の家臣・善児が殺すのかと思ったが、そこまで歴史を変えることはなかった。(善児は上総広常の脇差を抜き取ってアシストしただけであった。)梶原景時は、天に守られている源頼朝は助けたが、天に見放された上総広常は斬った。(鹿狩りの鹿は、賽の目に見放された上総広常であった。)
 脚本家が、「曽我兄弟の巻狩りでのあだ討ちをどう描こうか悩んでいる」そうだ。私なら迷わず「源頼朝暗殺未遂事件」として描く。今回の鹿狩りを口実とする兵の招集は、この巻狩りの伏線なのか? 土肥実平が体調不良で実行犯に加わらなかったことは、源実朝暗殺時の北条義時の行動の伏線なのか?

(2)『吾妻鏡』のストーリー


『吾妻鏡』「寿永3年(1184年)1月1日」条に、「去冬依廣常事」(去年(寿永2年)の冬の上総広常のことにより)とあるのみで、『吾妻鏡』の寿永2年の記事は欠落しているので、詳細は『吾妻鏡』では分からない。

■『吾妻鏡』「寿永3年(1184年)1月1日」条
 壽永三年正月小一日辛卯。霽。鶴岡八幡宮、有御神樂。前武衛、無御參宮。去冬依廣常事、營中穢氣之故也。藤判官代邦通、爲奉幣御使、着廻廊。別當法眼〔圓曉〕參會、被行法華八講云々。

(寿永3年(1184年)1月1日。晴れ。鶴岡八幡宮で、神楽があった。源頼朝は参宮しなかった。これは、去年の冬(寿永2年12月22日)の上総広常の事で、大倉御所が穢れているからである。大和判官代・藤原邦道が奉幣使として、(当時は舞殿がまだ建てられておらず)回廊に座った。別当・法眼円暁が参会し、法華八講を行ったという。)

(3)『愚菅抄』のストーリー


───御家人なんざ使い捨ての駒だ。お前は己の道を往け。法皇様だって目じゃねえや。

『愚菅抄』に、殺害理由として、
「なんでう朝家の事をのみ身ぐるしく思ぞ。ただ坂東にかくてあらんに、誰かは引はたらかさん」など申して謀反心の者にて候しかば、かかる者を郎従にもちて候はば、頼朝まで冥加候はじと思ひて、うしない候にき
(「なんで朝家(ちょうか。皇室)の顔色だけ伺うのか、見苦しく思うぞ。関東でこうしているのに、誰が引き動かすのか」などと言って、朝廷への謀反心を持っている者なので、このような者が家臣にいると、源頼朝まで好運に恵まれない(朝廷への謀反心を持っていると疑われる)と思って殺した)
とあります。
 暗殺方法については、
その介八郎を梶原景時してうたせたる事、景時がかうみやう云ばかりなし。双六うちてさりげなしにて、盤をこへて、やがて頸をかいきりてもてきたりける。まことしからぬ程の事也。
(その上総広常を梶原景時に討たせたのであるが、梶原景時の手口は実に巧妙であった。双六をやっていて、さり気なく盤を越えて、さっと首を切り落として持って来た。実に然らぬ(何でもない)程の事であった)
とあります。上総広常にしたら、「何、何、どうした?」と思った瞬間、首が胴と離れたようです。

 上総広常の言葉の意味は「朝廷に忖度せず、関東は東国知行権を持つお前(源頼朝)が動かせ」かと。「朝廷の顔色を見ないで、関東は関東で知しらん顔してやっていけばいいじゃん」、今で言えば、「コロナ対策は緊急を要するので、国のの対策が出る前に、県知事のお前が県独自の対策をしろよ」レベルの話であって、「朝廷に対して謀反(独立運動)を起こす」「東国独立国家の樹立を目指す」といった強い意志は私には感じられない。実際、上総広常は、上洛の準備をしていたという。

 ただ、この『愚菅抄』の話は、源頼朝が後白河法皇に話した話である。であるから、源頼朝が「朝廷のために誅殺した」と言うのは当然で、「自分のため、東国のために殺した」が真意であっても、言うはずがない。

■慈円『愚管抄』(巻六)

 院に申しける事は、わが朝家の為、君の御事を私なく身にかへて思候しるしは、介の八郎ひろつねと申し候し者は、東国の勢人。頼朝うち出候で君の御敵しりぞけ候はんとし候し、はじめは、ひろつねをめしとりて、勢にしてこそかくも打えて候しかば、功ある者にて候しかど、ともし候へば、「なんでう朝家の事をのみ身ぐるしく思ぞ。ただ坂東にかくてあらんに、誰かは引はたらかさん」など申して謀反心の者にて候しかば、かかる者を郎従にもちて候はば、頼朝まで冥加候はじと思ひて、うしない候にきとこそ申しけれ。その介八郎を梶原景時してうたせたる事、景時がかうみやう云ばかりなし。双六うちてさりげなしにて、盤をこへて、やがて頸をかいきりてもてきたりける。まことしからぬ程の事也。こまかに申さば、さることは、ひが事もあれば、これにてたりぬべし。この奏聞のやう誠ならば、返々まことに朝家のたからなりける者かな。

(4)学説

「義仲は皇位選定で院と対立。一方、寿永二年十月宣旨によって頼朝の家人たちの在地における立場は安定し、頼朝の求心力が高まる。宣旨の執行のために義経が伊勢・近江に向かって義仲を牽制する。そのような状況を利して頼朝は上総広常を粛清する。…という理解が、研究者間の一般的理解だと思います。」(京都女子大学名誉教授・野口実)
https://twitter.com/rokuhara12212/status/1513132325290188807

※宣旨の執行のために義経が:源義経軍の兵数を考えると、「執行」というより、「宣伝(デモンストレーション)」だったのでは?

 上洛して平家を都落ちさせた源義仲には、「武家の棟梁」を示す「征夷大将軍」は与えられませんでしたが「旭将軍」が与えられました。さらに「源氏の棟梁」を示す「伊予守」が与えられました。坂東武者は、「源頼朝は源氏の棟梁ではない」「俺たちの主君は、源氏の棟梁・源義仲の子・源義高だ」と思ったことでしょう。
 ところが、源義仲は朝廷と上手くいかず、源頼朝に「源義仲追討令」が出ると、源頼朝は見返りに「寿永二年十月宣旨」を求めました。これにより、源頼朝は東国知行権を得ました。つまり、源頼朝は、坂東武者から土地を奪うことも、土地を与えることもできるようになりました。この「寿永二年十月宣旨」により、坂東武者が源頼朝を主君と認めたので、これを以って「鎌倉幕府の成立」とする学者もいます。

 上総広常には謀叛の兆しがあった。でも、強大な相手なので倒せなかった。それが「寿永二年十月宣旨」により、坂東武者が源頼朝を主君と認め、倒せる状態となったので、倒した。

(5)その後のこと


 梶原景時は、源頼朝の命令を受けて、寿永2年12月22日、大倉御所で双六をしながら、一手を待つ、待たないの喧嘩をしたふりをして上総広常を暗殺した。
 さらに梶原屋敷からは軍隊が出陣し、広常屋敷を襲撃した。嫡男・上総能常は自害し、上総氏の所領を没収されて千葉氏や三浦氏に分配された。
 上総広常暗殺の理由は、「上総国一宮・玉前神社に謀反の願文を付けて鎧を奉納したから」だというが、上総広常が奉納した鎧の願文には、謀反を思わせる文はなく、源頼朝の武運を祈る文であったので、源頼朝は、上総広常を殺したことを後悔し、千葉常胤預かりとなっていた上総一族を赦免したが、上総家の再興はしなかった。

 上総広常の話を聞いて蘇我倉山田石川麻呂(中大兄皇子が中臣鎌足と共謀して蘇我入鹿の誅殺を謀った際(「乙巳の変」)の賛同者。蘇我入鹿暗殺の合図となる朝鮮使の上表文を大極殿で読み上げる役で、震えながら読み上げた)の話を思い出した。
 中大兄皇子は、649年3月24日、蘇我日向の密告(実は讒言)を受け、蘇我倉山田石川麻呂に謀反の疑いをかけて自害に追い込んだ。後日、蘇我倉山田石川麻呂の資財を調べさせたところ、「資財之中、於好書上題皇太子書、於重宝上題皇太子物。使者還申所収之状、皇太子始知大臣心猶貞浄、追生悔恥、哀歎難休」(資財の内、良い書物の上には「皇太子(中大兄皇子)の書」と付箋があり、貴重な宝物の上には「皇太子の物」と付箋があった。使者が帰って報告すると、皇太子は、初めて大臣(蘇我倉山田石川麻呂)の心が清浄であることを知り、次に後悔の念が湧いてきて、嘆き悲しむ事を止められなかった)という。皇太子は、蘇我日向を大宰府に「左遷」した。それを人々は「隠流(しのびながし)」(実質的には流罪)だと思ったという。

■『日本書記』
《大化五年(649年)3月戊辰【24日】》戊辰。蘇我臣日向。〈日向、字身刺。〉譖倉山田大臣於皇太子曰。僕之異母兄麻呂。伺皇太子遊於海浜、而将害之。将反、其不久。皇太子信之。天皇使大伴狛連。三国麻呂公。穂積噛臣於蘇我倉山田麻呂大臣所。而問反之虚実。大臣答曰。被問之報。僕面当陳天皇之所。天皇更遣三国麻呂公。穂積噛臣。審其反状。麻呂大臣亦如前答。天皇乃将興軍、囲大臣宅。大臣乃将二子法師与赤狛。〈更名秦。〉自茅渟道逃向於倭国境。大臣長子興志先是在倭。〈謂在山田之家。〉営造其寺。今忽聞父逃来之事。迎於今来大槻、近就前行入寺。願謂大臣曰。興志請、自直進。逆拒来軍。大臣不許焉。是夜。興志意欲焼宮。猶聚士卒。〈宮謂小墾田宮。〉

《大化五年(649年)3月是月》是月。遣使者収山田大臣資財。資財之中。於好書上題皇太子書。於重宝上題皇太子物。使者還申所収之状。皇太子始知大臣心猶貞浄。追生悔恥。哀歎難休。即拝日向臣於筑紫大宰帥。世人相謂之曰。是隠流乎。

 内部抗争があって権力基盤が脆弱な時、対立する者を「謀反の密告(讒言)」という形で、権力者に誅殺させて解決しようとすることは、いつの時代にもあることである。
「殺人犯は、その人が死んで最も得した者である」
という捜査の基本があるという。今回、最も得をしたのは、上総広常一族の領地を得た千葉常胤である。(とはいえ、上総広常の願文が発見されて、領地は戻された。)

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■「治承六年七月付上総国一宮奉納上総広常願文」

 敬白 
 上總國一の宮の御まへ
   立申す三か年中そくわん事
 一 かみ田二十町きしん事
 一 やしろつくりの事
 一 やふさめかうきやう事
 右こころさしハ、かまくら殿心中きくわんしやうしゆ東國たいへい也。如此くはんもう一々えん成せしかハ、いよいよかみのゐくわうお越かめたてまつるへし。よつてりつくわん如右。
    ちしよう六年七月十五日       上總權介平朝臣廣常 

(うやまい謹んで申し上げます。
 上総国一宮御前
   立願にあたり、3年以内にやる事
 一 神田を20町寄進します。
 一 社殿を造営します。
 一 流鏑馬を興行します。
 右の志は、鎌倉殿の心中の祈願の成就と、東国の泰平を願っての事です。願いが叶えば、さらに篤く信仰します。それで右のように立願しました。
    治承6年7月15日         上総権介平朝臣広常)

「これから3年の内にやるべきこと。
 明神様のための田んぼを作る。社も作る。流鏑馬を幾たびもやる。
 これら全て鎌倉殿の大願成就と東国の泰平のため」(訳:北条義時)

※本物は肩紐に結び付けられていたので、もっと折り目の細かい矢文のような物だと思われる。また、上総広常の発給文書の本文は右筆が書いたとしても、署名と花押は上総広常が書いていたはずで、こんな下手なはずがない。
※文字は書けなくても、言葉はまともに話せるわけで、たとえば、「祈願」と書かずに「きくわん」と書くと言うことは、実際に「きくわん」と言っていたのだろうか?
・「御前」は「御まへ」ではなく、「ごぜん」では?
・「神田(しんでん/かんだ)」は知っているが「かみ田」は初耳である。
※『鎌倉殿の13人』では「鎌倉殿とは呼ばない」として「武衛」と親しみを込めて呼んでいたが、神様への願文には、きちんと「鎌倉殿」と書いていることが泣ける。
※上総国一宮・玉前神社には、この願文を刻んだ石碑がある。有名な願文なのに、なぜ文言を変えたのか理解できない。
※岩橋直樹「上総介広常誅殺に関する覚書―-特に『吾妻鏡』所収の広常願文をめぐって―」(『明治大学文学部・文学研究科学術研究論集』9号、2019年)

■『吾妻鏡』「寿永3年(1184年)1月8日」条
壽永三年正月小八日戊戌。上総國一宮神主等申云。「故介廣常存日之時、有宿願、奉納甲一領於當宮寳殿」云々。武衛被仰下曰、「定有子細事歟。被下御使、可召覽之」云々。仍、今日、被遣藤判官代并一品房等、進御甲二領。「彼奉納甲者。已爲神寳、無左右難給出之故、以兩物取替一領之條、神慮、不可有其崇歟」之旨、被仰云々。

(寿永3年(1184年)1月8日。上総国一宮・玉前神社の神主達が言った。「故・上総広常が生存時に、宿願があって、鎧兜1領を当・玉前神社の宝殿へ奉納した」と。源頼朝は、仰せ下されて曰く、「さぞ事情があるのだろうか。使者を遣って、見させよう」と。それで今日、大和判官代・藤原邦道と一品坊昌寛を遣り、鎧兜2領を進呈し、「かの奉納された鎧兜は、既に神宝になり、無造作に出すことは出来ない。2領と1領との取り替えであれば、神の祟りは無いであろう」と仰せられたという。)

■『吾妻鏡』「寿永3年(1184年)1月17日」条
壽永三年正月小十七日丁未。藤判官代邦通、一品房并神主兼重等、相具廣常之甲、自上総國一宮、皈參鎌倉。即召御前覽彼甲〔小櫻皮威〕、結付一封状於高紐。武衛、自令披之給。其趣所奉祈武衛御運之願書也。不存謀曲之條、已以露顯之間、被加誅罰事、雖及御後悔、於今無益、須被廻没後之追福。兼又、廣常之弟・天羽庄司直胤、相馬九郎常淸等者、依縁坐爲囚人也。優亡者之忠、可被厚免之由、被定仰云々。願書云。
 敬白 上總國一宮寳前
   立申所願事
 一 三箇年中可寄進神田二十町事
 一 三箇年中可致如式造營事
 一 三箇年中可射万度流鏑馬事
 右志者、爲前兵衛佐殿下心中祈願成就東國泰平也。如此願望令一々圓滿者、弥可奉崇神威光者也。仍立願如右。
    治承六年七月日             上総權介平朝臣廣常

(寿永3年(1184年)1月17日。大和判官・代藤原邦道、一品坊昌寛、それに神主・兼重等は上総広常が納めた鎧兜を携えて、上総国一宮から鎌倉へ帰ってきた。源頼朝は、すぐに御前へ呼んで、かの鎧兜〔小桜皮威(こざくらかわおどしよろい)〕をご覧になると、一通の手紙が肩の紐に結び付けてあった。源頼朝は、自ら手に取って開いた。その内容は、源頼朝の運を祈る願書であった。謀反心が無いことが、既に露見したので、誅殺したことを後悔したが、今となっては無益(後悔をしたところでどうにもならない事)なので、追善供養をした。また、上総広常の弟・天羽庄司直胤と相馬九郎常清等は、同罪で捕らえられていた。死んだ上総広常の忠義心に応じて許すと仰せられた。願書には次のように書かれていた。
うやまい謹んで申し上げます。 上総国一宮の宝前へ。
 立て申すところの願事
一 3ヶ年の内に、神田20町を寄進すること
一 3ヶ年の内に、式の如く造営すること
一 3ヶ年の内に、1万射の流鏑馬をすること
以上の志は、源頼朝の心中の祈願を成就させ、東国泰平のためである。このような願望が円満成就すれば、益々神のご威光を崇める。よって以上のように立願する。
   治承6年(1182年)7月日   上総広常)

■『吾妻鏡』「寿永3年(1184年)2月14日」条
壽永三年二月大十四日癸酉。(中略)今日。上総國御家人等多以私領本宅、如元可令領掌之旨、給武衛御下文。彼輩、去年、依爲廣常同科、所被収公所帶也。

(寿永3年(1184年)2月14日。(中略)今日、上総国の御家人たちの多くが、自分の領地と屋敷地とを以前の通りに知行するよう、源頼朝の下文(くだしぶみ)が発給された。彼(か)の輩(やから)は、去年の上総広常と同罪とみなされ、領地などを没収された人々である。)


▲「13人の合議制」のメンバー

【文官・政策担当】①中原(1216年以降「大江」)広元(栗原英雄)
【文官・外務担当】②中原親能(川島潤哉)
【文官・財務担当】③藤原(二階堂)行政(野仲イサオ)
【文官・訴訟担当】④三善康信(小林隆)

【武官・有力御家人】
⑤梶原平三景時(中村獅童)
⑥足立遠元(大野泰広)
⑦安達藤九郎盛長(野添義弘)
⑧八田知家(市原隼人)    
⑨比企能員(佐藤二朗)
⑩北条時政(坂東彌十郎)
⑪江間(北条)義時(小栗旬)
⑫三浦義澄(佐藤B作)
⑬和田小太郎義盛(横田栄司)

▲NHK公式サイト『鎌倉殿の13人』
https://www.nhk.or.jp/kamakura13/

▲参考記事

・サライ「鎌倉殿の13人に関する記事」
https://serai.jp/thirteen
呉座勇一「歴史家が見る『鎌倉殿の13人』」
https://gendai.ismedia.jp/list/books/gendai-shinsho/9784065261057
・富士市「ある担当者のつぶやき」
https://www.city.fuji.shizuoka.jp/fujijikan/kamakuradono-fuji.html
・渡邊大門「深読み「鎌倉殿の13人」」
https://news.yahoo.co.jp/byline/watanabedaimon

・近藤正高「『鎌倉殿の13人』15話 は神回!上総広常(佐藤浩市)はなぜ斬られたのか?じっくり考察する」
https://news.yahoo.co.jp/articles/8a56849500c846111794df825178c3401d2d05d1

▲参考文献

・安田元久 『人物叢書 北条義時』(吉川弘文館)1986/3/1
・元木泰雄 『源頼朝』(中公新書)2019/1/18
・岡田清一 『日本評伝選 北条義時』(ミネルヴァ書房)2019/4/11
・濱田浩一郎『北条義時』(星海社新書)2021/6/25
・坂井孝一 『鎌倉殿と執権北条氏』(NHK出版新書)2021/9/10
・呉座勇一 『頼朝と義時』(講談社現代新書)2021/11/17
・岩田慎平 『北条義時』(中公新書)2021/12/21
・山本みなみ『史伝 北条義時』(小学館)2021/12/23

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