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第9回の再放送を観た。

ラストシーンは、私なら平清盛が怒ってるシーンにしちゃいますね。

『鎌倉殿の13人』では源義経と源頼朝の対面シーンを持ってきた。

最初は「本当に源義経か?」と疑っていた源頼朝ですが、

藤原秀衡の手紙を読んで態度が一変。

手紙には何が書いてあったのでしょうか?

想像するに

「源義経が平清盛を討つ時には加勢する」

とでもあったのでしょう。

そして、今回、坂東武者は、

・特に平清盛を恨んでいない。
・遠征は無理。

ということが分かり、今後の源平合戦の大将は、

坂東武者から、源義経とか、源範頼といった

源頼朝の弟に変ります。

血の繋がっていない坂東武者より、義弟・北条義時より、

異母弟・源義経がいい。

(源頼朝は、「とどのつまり、わしは1人ということじゃ。流人の時も、今も」と言っていたが、安達盛長、いや、異母弟・阿野全成がいるでしょ。妻・政子もいる。妾・亀も、元妻・八重もいる。浦山)

1.源義経と源頼朝の対面『義経記』


『義経記』(巻第四)「頼朝義経対面の事」


 九郎御曹司浮島が原に著き給ひ、兵衛佐殿の陣の前三町ばかり引き退いて、陣をとり、暫く息をぞ休められける。佐殿是を御覧じて「此処に白旗白印にて清げなる武者五、六十騎ばかり見えたるは、誰なるらん、覚束なし。信濃の人々は木曾に随ひて止まりぬ。甲斐の殿原は二陣なり。如何なる人ぞ。本名実名を尋ねて参れ」とて堀弥太郎御使ひに遣はされ、家の子郎等数多引き具して参る。間を隔て弥太郎一騎進み出で申しけるは、「是に白印にておはしまし候ふは誰にて渡らせ給ひ候ふぞ。本名実名を確かに承り候へと鎌倉殿の仰せにて候ふ」と申しければ、其の中に廿四、五ばかりなる男の色白く、尋常なるが、赤地の錦の直垂に紫裾濃の鎧の裾金物打ちたるを著、白星の五枚兜に鍬形打つて猪頚に著、大中黒の矢負ひ、重藤の弓持ちて、黒き馬の太く逞しきに乗りたるが歩ませ出でて、「鎌倉殿も知召されて候ふ。童が名牛若と申し候ひしが、近年奥州に下向仕り候ひて居候ひつるが、御謀反の様承り、夜を日に継ぎて馳せ参じて候ふ。見参に入れて賜び候へ」と仰せられければ、堀弥太郎、さては御兄弟にてましましけりと馬より飛んで下り、御曹司の乳母子佐藤三郎を呼び出だして、色代有り。弥太郎一町ばかり馬を引かせけり。かくて佐殿の御前に参り、此の由を申しければ、佐殿は善悪に騒がぬ人にておはしけるが、今度は殊の外に嬉しげにて、「さらば是へおはしまし候へ。見参せん」と宣へば、弥太郎やがて参り、御曹司に此の由を申す。御曹司も大きに悦び、急ぎ参り給ふ。佐藤三郎、同四郎伊勢三郎是等三騎召し連れて参らるる。佐殿御陣と申すは、大幕百八十町引きたりければ、其の内は八ケ国の大名小名なみ-居たり。各々敷皮にてぞ有りける。佐殿御座敷には畳一畳敷きたれ共、佐殿も敷皮にぞおはしける。御曹司は兜を脱ぎて童に著せ、弓取り直して、幕の際に畏まつてぞおはしける。其の時佐殿敷皮を去り、我が身は畳にぞ直られける。「それへそれへ」とぞ仰せらるる。御曹司しばらく辞退して敷皮にぞ直られける。佐殿御曹司をつくづくと御覧じて先づ涙にぞ咽ばれける。御曹司も其の色は知らね共、共に涙に咽び給ふ。互に心の行く程泣きて後、佐殿涙を抑へて、「扨も頭殿に後れ奉りて、其の後は御行方を承り候はず。幼少におはし候ふ時、見奉りしばかり也。頼朝池の尼の宥められしによりて、伊豆の配所にて伊東、北条に守護せられ、心に任せぬ身にて候ひし程に奥州へ御下向の由はかすかに承つて候ひしかども、音信だにも申さず候ふ。兄弟有りと思召し忘れ候はで、取り敢へず御上り候ふ事、申し尽くし難く悦び入り候ふ。是御覧候へ。斯かる大功をこそ思ひ企てて候へ、八ケ国の人々を始めとして候へども、皆他人なれば身の一大事を申し合はする人もなし。皆平家に相従ひたる人々なれば、頼朝が弱げを守り給ふらんと思へば、夜も夜もすがら平家の事のみ思ひ、又ある時は、平家の討手上せばやと思へども、身は一人なり。頼朝自身進み候へば、東国覚束なし。代官上せんとすれば、心安き兄弟もなし。他人を上せんとすれば、平家と一つに成りて、返つて東国をや攻めんと存ずる間、それも叶ひ難し。今御辺を待ち付けて候へば、故左馬頭殿生き返らせ給ひたる様にこそ存じ候へ。我等が先祖八幡殿の後三年の合戦にむなうの城を攻められしに、多勢皆亡ぼされて、無勢になりて、厨河のはたに下り下りて、幣帛を俸げて王城を伏し拝み、「南無八幡大菩薩御覚えを改めず、今度の寿命を助けて本意を遂げさせて給べ」と祈誓せられければ、誠に八幡大菩薩の感応にや有りけん、都におはする御弟刑部丞内裏に候ひけるが、俄に内裏を紛れ出で、奥州の覚束無きとて、二百余騎にて下られける。路次にて勢打ち加はり、三千余騎にて厨河に馳せ来たつて、八幡殿と一つになりて遂に奥州を従へ給ひける。其の時の御心も、頼朝御辺を待ち得参らせたる心も、如何でか是に勝るべき。今日より後は魚と水との如くにして、先祖の恥をすすぎ、亡魂の憤りを休めんとは思召されずや。御同心も候はば、尤も然るべし」と宣ひも敢へず、涙を流し給ひけり。御曹司兎角の御返事も無くして、袂をぞ絞られける。是を見て大名小名互ひの心の中推量られて、皆袖をぞ濡らされける。暫く有りて、御曹司申されけるは、「仰せの如く、幼少の時御目にかかりて候ひけるやらん。配所へ御下りの後は、義経も山科に候ひしが、七歳の時鞍馬へ参り、十六まで形の如く学問を仕り、さては都に候ひしが、内々平家方便を作る由承り候ひし間、奥州へ下向仕りて、秀衡を頼み候ひつるが、御謀反の由承りて、取り敢ず馳せ参る。今は君を見奉り候へば、故頭殿の御見参に入り候ふ心地してこそ存じ候へ。命をば故頭殿に参らせ候ふ。身をば君に参らする上は、如何仰せに従ひ参らせでは候ふべき」と申しも敢へず、又涙を流し給ひけるこそ哀れなれ。さてこそ此の御曹司を大将軍にて上せ給ひけり。

※源義経、50~60騎で参上。

2.源義経と源頼朝の対面『吾妻鏡』


治承四年十月小廿一日庚子。(中略)今日。弱冠一人。彳御旅舘之砌。稱可奉謁鎌倉殿之由。實平。宗遠。義實等恠之。不能執啓。移尅之處。武衛自令聞此事給。思年齢之程。奥州九郎歟。早可有御對面者。仍實平請彼人。果而義經主也。即參進御前。互談往事。催懷舊之涙。就中。白河院御宇永保三年九月。曾祖陸奥守源朝臣〔義家〕於奥州。与將軍三郎武衡。同四郎家衡等遂合戰。于時左兵衛尉義光候京都。傳聞此事。辞朝廷警衛之當官。解置弦袋於殿上。潜下向奥州。加于兄軍陣之後。忽被亡敵訖。今來臨尤協彼佳例之由。被感仰云々。此主者。去平治二年正月。於襁褓之内。逢父喪之後。依繼父一條大藏卿〔長成〕之扶持。爲出家登山鞍馬。至成人之時。頻催會稽之思。手自加首服。恃秀衡之猛勢。下向于奥州。歴多年也。而今傳聞武衛被遂宿望之由。欲進發之處。秀衡強抑留之間。密々遁出彼舘首途。秀衡失恪惜之術。追而奉付繼信忠信兄弟之勇士云々。

※源義経、1人で参上。

3.源頼朝の縁者

源為義┬義朝【死亡】┬長男・義平(母:遠江国橋本宿の白拍子?)【死亡】
   │      ├次男・朝長(母:典膳大夫中原久経の娘)【死亡】
   │      ├三男・頼朝(母:熱田大宮司・藤原季範の娘)
   │      ├四男・義門(母:?)【死亡(早逝)】
   │      ├五男・希義(母:熱田大宮司・藤原季範の娘)
   │      ├六男・範頼(母:遠江国池田宿の白拍子):合流
   │      ├七男・全成(母:常盤御前):醍醐寺→合流
   │      ├八男・義円(母:常盤御前):園城寺→源行家に合流
   │      └九男・義経(母:常盤御前):鞍馬寺→平泉→合流
   ├次男・義賢(帯刀先生)【死亡】─木曽義仲(旭将軍):室は巴御前
   ├三男・義広(志田三郎先生)
   ├四男・頼賢(左衛門尉)【死亡】
   ├五男・頼仲(五郎掃部助、掃部五郎)【死亡】
   ├六男・為宗(丹波冠者、丹波六郎、賀茂六郎)【死亡】
   ├七男・為成(八幡七郎、賀茂七郎)【死亡】
   ├八男・為朝(鎮西八郎)【死亡】
   ├九男・為仲(九郎)【死亡】
   └十男・行家(新宮十郎)┬光家
                 └行頼

 源頼朝が最初に会ったのは「怪しい山伏」姿の源行家である。いきなり「無礼者!」と源頼朝を𠮟責し、牧の方も「あの態度では以仁王は負ける」と言っている。
 次に源頼朝が最初に会ったのは七男・全成である。会って源頼朝は泣いたかどうかは、出会いのシーンがカットされているので、分からない。
 次に源頼朝が最初に会ったのは九男・義経で、源頼朝は泣いた。また、子供が女子(大姫)しかいなかったので、九男・義経を養子にしたという。
 次に源頼朝が最初に会うのは六男・範頼だと思われる。源頼朝が泣くかどうか注目したい。
 源頼朝が八男・義円に会ったかどうかは分からない。『吾妻鏡』には「会った」という記事はなく、尾張国で挙兵した源行家に従い、今(治承4年10月20日)から数ヶ月後(治承5年3月10日)の「墨俣川の戦い」において、平家の家人・高橋盛綱に討ち取られた。享年27。
説①:義円は、源頼朝に会わず、尾張国に入り、源行家と共に行動した。
説②:鎌倉に赴き、源頼朝に会うと「源行家が挙兵するので加勢に行ってくれ」と命令されたので、源行家のもとへ行った。

■『吾妻鏡』「治承5年(1181年)3月10日」条
 治承五年三月小十日丙戌。十郎藏人行家〔武衛叔父〕、子息・藏人太郎光家、同次郎、僧・義圓〔號卿公〕、泉太郎重光等、相具尾張、參河兩國勇士、陣于墨俣河邊。平氏大將軍頭亮重衡朝臣、左少將維盛朝臣、越前守通盛朝臣、薩摩守忠度朝臣、參河守知度、讃岐守左衛門尉盛綱〔號高橋〕、左兵衛尉盛久等、又在同河西岸。
 及晩、侍中廻計、密々欲襲平家之處、重衡朝臣舎人・金石丸、爲洗馬至河俣之間、見東士之形勢、奔歸告其由。仍、侍中未出陣之以前、頭亮随兵襲攻源氏。縡起楚忽、侍中從軍等頗失度、雖相戰無利。義圓禪師、爲盛綱被討取、藏人次郎、爲忠度被生虜、泉太郎、同弟・次郎、被討取于盛久。此外軍兵、或入河溺死、或被傷殞命。凡六百九十余人也。

(治承5年(1181年)3月10日。源十郎蔵人行家(源頼朝の叔父)は、長男・源光家、次男・源行頼、甥の僧・義円(「卿公(きょうのきみ)」と言う)、泉重光(山田重満)や尾張国、三河国の勇士を引き連れて墨俣川(長良川)に陣を構えた。平家の大将軍・平頭亮重衡(「頭亮」は「蔵人頭中宮亮」の略)、左少将・平惟盛、平越前守通盛、平薩摩守忠度、平三河守知度、平讃岐守左衛門尉盛綱(平伊勢守盛国の子。「高橋」と言う)、平左兵衛盛久(平伊勢守盛国の八男)等が同じ川の西岸にいた。
 夜になって、侍中(「蔵人」の唐名。ここでは源蔵人行家のこと)は計知略を巡らせ、密かに平家軍を攻撃しようとしていたところ、平重衡の舎人・金石丸が、馬を洗おうと、川へやってきたら、東軍(川の東岸の源行家軍)の形勢を見て、走って帰り、報告した。よって、侍中(源行家)がまだ出陣する前に、頭亮(平重衡)の軍隊が源氏軍を攻めた。急な事態に、源行家軍は慌ててしまい、戦いはしたが、利(勝ち目、勝機)は無かった。義円禅師は高橋盛綱に討ち取られ、源行頼は平忠度の捕虜となり、泉重光は平盛綱の弟・平盛久が討ち取った。この他の軍兵も、或る者は川に入って溺れ死に、或る者は傷を受けて死んだ。死者数は約690余人である。)

 土佐国に流罪となっていた「土佐冠者」こと五男・希義の死亡年月日は不明で、今年(1180年)没とも、2年後の寿永元年(1182年)9月25日没とも。

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