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平然と首を渡す美濃守

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   長篠   川田順

「馬場信房のおくつきはいづこ」
と問うに城址の麦刈る農夫ちらと見て答えず麦を刈りいそぐ。
ふたたび問えば、刈りやめて、
「美濃守さまの墓ならば教えんものを信房と呼び捨てしゆえ答えんや」
「美濃守さまのおくつきはいづこ」
と問えば、汗ふきて、
「むこうの辻の地蔵より北へ二丁」
とねんごろに教えられたる道ゆけば、樹を目しるしの古き墓。
「これは日課の一つ」
とて小学児童ら苔を掃く。甲斐の国より攻め入りし敵将ながら慕われて寒狭川べに祀らるる墓のあるじの美濃守。

※昭和14年(1939年)、漢学者で貴族院議員の川田甕江の三男にして、実業家(住友総本社常務理事)であり、歌人でもある川田順は、長篠古戦場を訪問し、次の5首を詠んだ。

  長篠古戦場
長篠のいくさの日にもこの部落は 夏蚕養ひにけむ今日のごとくに
甲斐の諸将水さかづきに汲みたりし 清水と聞くを蠑螈這ふなり
寒狭川をわたりて広き穂麦原 決戦の跡に踏み入らむとす
相変わらず槍刀にて勝つものと 弾丸へ飛び込みし甲斐の勢はや
知略乏しく滅びし者の跡に佇てり 汗拭きながら憤ろしも
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1685875/116

 麦刈りをしている農民に馬場美濃守信房の奥都城(神道式の墓)の場所を聞いたが無視された。「おい、おい、しかとかよ、無礼者! 俺を誰だと思ってる? 斉藤さん、いや、貴族院議員の子で、住友総本社常務理事だぞ!」と怒鳴りたいところであるが、作業に熱中しているのか、耳が遠いのか、「奥都城」の意味を知らないのかと思い、再び問うと、「美濃守様の墓の場所なら知っている」というので、「美濃守様の墓」の場所を再び問うと、今度は丁寧に教えてくれた。馬場美濃守信房は敵将であるのに、様付けで呼ばれ、小学生が毎日墓掃除をしているという。これが信房(しんぼう)、いや、人望(じんぼう)というものか。
 令和の今でもそうで、私も取材の時、「~の」と呼び捨てにしたら、顔色が変わったので、「~公の」と聞きなおした。でも、エジソンにしろ、偉い人はみんな呼び捨てにされてるぞ!?
 で、結局最後は「墓のあるじの美濃守」に逆戻りかよ。そこは「墓のあるじの美濃守さま」だろ。

 長篠城の近くに馬場美濃守信春の墓がある。

 馬場信春の首が埋められているというので、ここで討死したのかと思ったら、そうではない。『出沢村誌』に「馬場美濃守の墓、字前畑にあり。柳田の戦に敗軍して此所にて戦死す。武田の家臣にて此地に葬る。現今桜の老樹あり。今緒巻桜と称す」、出沢由次郎『鳳来道ノ記』に「大渕の西の方山際少し高き所、是長篠合戦の刻、甲州馬場美濃守信房切腹之所也」とある。

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 「長篠・設楽原の戦い史跡案内図」(有料)を頼りに、「馬場美濃守信房戦死之地 ふぢう道 緒巻桜」へ向う。

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 「馬場美濃守信房戦死之地 ふぢう道 緒巻桜」の手前に、「かるた看板」と今泉金次郎が立てた「馬場美濃守信房之碑」がある。

 「かるた看板」を見て、「平然と首を渡す美濃守」よりも、「平然と首を渡す馬場美濃守」の方がしっくりくると思った。

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 案内によれば、ここから500m北へ行って、ヘアピンカーブを曲がって藤生道に入った右手にあるという。

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 「橋詰殿(しんがり)戦場」の注意書き。さすがに排便はないだろ。

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 藤生道へ。細い山道を30m登る。

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 あった!!!!
 花が添えられていた。さすが、人望あつき人だ。

■『長篠日記』
 弥(いよいよ)甲州勢、崩れ立ちたり。馬場美濃守は、未だ手も負はず。700人の人勢は大方討死。或るは手負ひ引き退く。
 漸(やうや)く80余騎計りになりたり。「同心、被官は何も引き退き候へ」と相断る。穴山は責め合ひもなく引き退く。
 一条右衛門は、美濃守と一所に出沢(すざわ)の谷に罄(つき)たり。一条が同心、和田の某(なにがし)、弓矢利発なる者にて、馬場美濃守に向ひて「御下知候へ」と云ふ。
 美濃守、莞爾と笑ひ、「引くより外は無し」と云ひて、後の出沢が谷の小高き所に登りて、「馬場美濃と云ふ者なり。首を取れ」と名乗り鳧(けれ)ば、原田備中が家来、首を取る。
 此の時、6人にて鑓を以て突き候へども、美濃守は西方に向て合掌し、敵の方へ見向いもせず居たり。原田が家来、河合三十郎と云ふ者、首を打て取るなり。

 いよいよ武田軍の形勢は不利になった。馬場信春は、未だ手傷を負わずにいたが、700人いた馬場隊の兵は、大方討死したり、手傷を負って退却していた。
 馬場隊の兵が残り約80人になると、馬場信春は、「全員退却」と命じた。穴山信君は戦うことなく退却した。
 一条信龍は、馬場信春と共に出沢の谷に至った。一条信龍の同心である和田は、戦上手で、馬場信春に向って「御命令を」と言った。
 馬場信春は、ニコッと笑い、「退却以外は無し」と言って、(家臣・原四郎に「身印を領地の自元寺(山梨県北杜市白州町白須)に持って行ってくれ」と託すと)後方の出沢の谷の小高き所に登って、「私は馬場美濃という者である。首を取れ」と名乗ったので、原田備中守直政(塙直政)の家来が首を取った。
 この時、6人がかりで馬場信春に槍を突き立てたが、馬場信春は、反抗はもちろん、敵も見ず、西方浄土の方を向いて合掌していた。それで原田直政の家来の河合三十郎が馬場信春の首を取れたのである。(一説に、ためらう河合三十郎が突き出した槍を素手で握り、自らの胸を突いて自決したという。出沢由次郎『鳳来道ノ記』に「甲州馬場美濃守信房切腹」とあるが、普通の切腹とは違うようだ。)

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■『自元寺由緒書』
 天正3年乙亥年5月21日、於三州長篠合戦、引受家康・信長等大敵、其の日、兼而遺言して思ひ定め討死すと云。長篠の橋場より只1騎、取て返し、深沢谷の小高き処に駆け揚り、「馬場美濃、行年62歳、首取りて武門の眉目にせよ」と呼はりければ、敵兵聞て4、5騎、四方より鑓を付。信房、太刀に手を掛けず、仁王立に成て討せしは、前代未聞の最期也。  
 首は河合三十郎と云ふ者、討ち取る。兼て遺言を承りし家臣・原四郎、遺物、遺骨を持来於甲州自元寺、法事等相勤。法名乾叟自元居士。墓所白須有也。

 天正3年5月21日、三河国長篠合戦において、徳川家康や織田信長等の大軍と戦い、その日、あらかじめ遺言して思いを定め(死ぬ決意を固め)討死したという。(寒狭川を武田勝頼が渡るのを確認し)橋から1人で戦場方面に引き返し、深沢谷の小高い所に駆け登り、「私は馬場美濃守信房、62歳である。私の首を取って武功にしなさい」と叫んだので、敵兵が聞いて4、5人集まって四方から槍で突いた。馬場信房は、刀に手を掛けず(抵抗せず)、仁王立ちになって、敵に討ち取らせてあげたというのは、前代未聞の話である。  
 馬場信房の首は、河合三十郎という者が取った。あらかじめ遺言を承っていた家臣・原四郎は、遺物、遺骨を甲斐国の自元寺に持ち帰り、法事(葬式)等を行った。馬場信房の法名は「乾叟自元居士」である。墓は白須(山梨県北杜市白州町白須)の自元寺にある。

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