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「饅頭」考 -「矢口祭」の「十字」-

━━「矢口祭」では「矢口餅」と「十字」を食べる。

 こう聞くと、「矢口餅」も「十字」も何か特別な料理に思われる。確かに「矢口餅」はそうであるが、「十字」は「饅頭」のことだという。

「饅頭」の起源は、『事物紀原』に、裨官小説(はいかんしょうせつ。身分の低い小役人が集めた民間伝承。伝説。稗史(はいし))によれば、野見宿禰が殉死を廃して埴輪で代用させたように、諸葛孔明が人身御供(人間の首)の代わりに、饅頭を供えたのが起源だという。饅頭=肉饅であって、「饅」(魚肉や野菜を酢みそであえた料理。ぬた)は餡=具材(脳みそ)、「頭」は皮(白い頭蓋骨)であろう。(頭のように丸く作るが、蒸し器に入れて蒸すと下が平らになり、半球(ドーム)状になる。)

■『事物紀原』(巻9)「酒醴飲食部 第46 饅頭」 
饅頭
裨官小説云。諸葛武侯之征孟獲、人曰「蠻地多邪術、須禱於神、假陰兵一以助之。然蠻俗、必殺人、以其首祭之神。則、嚮之爲出兵也」。武侯不從、因雜用羊豕之肉、而包之以麪、象人頭以祠神、亦、嚮焉。而爲出兵、後人由此爲饅頭、至晋盧誰祭法、春祠用饅頭、始列於祭祀之品、而束晳餅賦亦有其説、則饅頭疑自武侯始也。

(裨官小説(巷説)は、次のようである。諸葛武侯(孔明)が孟獲を征伐した時、ある人が「蛮地には邪術が多く、神に祈り、陰兵(斬っても幻影を斬るような冥府の兵。ここでは「神の兵」)の助けを受けるべきである。蛮人の習俗では、必ず人を殺し、その首を神に祭る。すると、神がこの生贄を享け、兵を出してくれる」と進言した。武侯(孔明)はこの(野蛮な)進言には従わず、羊と豚の肉を混ぜ、小麦を練って作った皮で包み、人の頭を象った供物を神に捧げると、神は享け、兵を出した。後人は、これを饅頭の起源とする。)

「蒸餅」を「饅頭餅」といい、中に餡(獣肉、蔬菜)を入れたものを「饅頭」というらしい。

■『瓦礫雜考』「まんぢう」
 本草蒸餅の附方には、饅頭餅とも書り。蒸餅とおなじ物なれども、中に餡を入るゝを饅頭といふ。餡はもと獸肉また蔬菜などをいるゝもの也。こゝには肉を用ひしことは聞えざれども、菜をば包みたることはありと見えて、七十一番職人盡に、さたうまんぢう、さいまんぢうといふことあり。さたうまんぢうは、よの常の饅頭なるべし。(中略)饅頭のもとの形を考ふるに、かの職人盡の繪に書たるは、今の腰だかまんぢうに似たり。そも圓く作りたるものなるべけれど、蒸籠に入て蒸す故に、下は平になる理なり。これを形圓からむとおもふは、墳を土饅頭といひ、莔麻(ケイマ)の實を檾(ケイ)饅頭、薜荔の實を木饅頭といへるをもてなり。


 そして、「十字」は、蒸した餅の上に、十文字に切れ目を入れた饅頭(蒸餅)で、「十字」という呼称については、『晋書』(33)「何曾伝」に、何曾(かそう。199-278年。中国三国時代の魏&西晋の政治家)が、十文字に切れ目を入れてから食べた事に由来するとあり、李瀚『蒙求』には、何曽が参朝しても大膳所の物を食べないので、帝がその携帯食を取上げると、蒸餅であったとある。グルメの何曾には、宮殿の食事はまずく、自家製のおいしい蒸餅を持参して食べていたのである。
 この食べ方を、『貞丈雜記』では「十文字に切れ目を入れて、食べやすくしてから食べた」、『喜遊笑覧』では「十文字に切れ目を入れて、皮を剥いて「おぼろ饅頭」にしてから食べた。「栄曜に餅の皮をむく」(奢るさまのたとえ)の由来」と解釈している。

※「おぼろ饅頭」
https://www.omotesenke.jp/chanoyu/7_8_6a.html

■『貞丈雜記』(巻之六)「飮食之部 十字之事」
一 十字(じうし)と云は、餅(もち)のこと也。『東鑑』に「賜十字」、又「供十字」、又「食十字」などゝあるは、何も餅の異名也。昔、晋朝に何曽(かそ)と云人、字は頴孝(えいかう)と云。此人、親に孝行にて行儀正しき人なりしが、奢侈者にて衣服、諸道具、飮食、皆、花麗を盡せり。蒸餅(しやうべい)を食するに、蒸餅の上に拆(さい)て、十字を作(なさ)ざれば、食(くは)ざりしと也。此故事を以て、餅を「十字」と云也。「拆て十字を作(なす)」とは、餅の上に小刀めを十文字に入て、くひよき樣にしたゝめたるをいふ也。右、何曽がことは『晋書』第十三卷めにみえたり。『蒙求』にもみえたり。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2583444/24
■『喜遊笑覧』(10上)「飲食」
 『東鑑』に「十字」とあるものは饅頭なり。『晋書』「何曽、性奢豪、務在華侈云々。蒸餅上不拆作十字不食」。これを奢れる故事にいへり。こゝには「栄曜に餅の皮をむく」ともいへり。今、「おぼろまんぢう」といふは、上の皮おむきたるなり。是等は物の数ならず、えもいはれぬ美食、費を顧みざるもの枚挙しがたし。是を何とかいはむ。「十字」は、蒸て拆たるをいふ。


 「饅頭」のことを祝い事では「万寿」と書く。(他の漢字表記には「万十」「万頭」「曼頭」がある。)饅頭の上に「寿」と焼印を押すのは、寿(じゅ)=十(じゅう)という洒落であって、十文字に切った名残ではないかとも思う。

 『職人尽歌合』の「調菜(ちょうさい)」の「饅頭の頭に朱点あり。是、もと点にはあらじ。十字なるべし」(『喜遊笑覧』)。(仏教では肉食禁止なので、僧侶は、肉の代わりに野菜を用いた「菜饅頭」を食した。)

■『喜遊笑覧』(10上)「飲食」
 『職人尽』の絵に、饅頭の頭に朱点あり。是、もと点にはあらじ。十字なるべし(高野山の或院に宿りしが、饅頭の頭に、紅にて印をおしたるを出せり。是も其遺風か)。『萩原随筆』に、「智恩院の御忌法事に、衆僧へ引饅頭面に紅粉を点ずる。これ、十字引の遺風なりと云」と有り、拆たる状を画るもいとおかしきわざなり。

※薯蕷饅頭「笑顔」(虎屋文庫)
https://www.toraya-group.co.jp/toraya/products/namagashi/egaoman/

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『職人尽歌合』には、「饅頭売り」とは別に、僧形の「調菜(ちょうさい)」が載っており、
「砂糖饅頭、菜饅頭、何れも良く蒸して候」
と、上が赤い饅頭を売っている様子が描かれている。

『和漢三才図会』に、「京都の臨済宗建仁寺派大本山・建仁寺(京都府京都市東山区大和大路四条下ル小松町。開基は源頼家、開山は栄西)の二世住職・龍山徳⾒禅師は宋に渡り、光明天皇の1341年(興国2年/曆応4年。元の順宗皇帝の至正元年)に帰国しました。龍山徳⾒禅師は、林浄因(りんじょういん)と宋で友となり、林浄因は、龍山徳⾒禅師と共に来日し、奈良の二条(奈良県奈良市漢国町)に定住して、饅頭作りを仕事としました。「林」を改姓して、「塩瀬」と名乗りました。これが日本における「饅頭」の始まりです」とある。

※「両足院」公式サイト
https://ryosokuin.com/introduction/history/

■『和漢三才図会』「饅頭」
五雜組云。餛飩即今饅頭耳非餠。又有蒸餠、豆餠、金餠、索餠、籠餠、紅綾、餡餠(あんもち)。
本綱以小麥麪修治食品甚多皆隨形命名也。惟蒸餠其來最古是酵糟發成單麪所造可入藥其以果菜油膩諸物爲餡者不入藥。
群談採餘云。諸葛亮征孟獲奏凱回日至瀘水風濤不能渡人曰「蠻多邪術須禱于神常例必殺四十九人頭以祭之怨鬼自散方可渡也」。亮曰「吾班師回都安可妄殺一人。吾自有主見乃雜用羊豕肉和麵爲劑塑成假人頭爲言饅頭作祭文以祠」。遂風息浪靜得渡。此饅頭名始于此。
△按蒸餠即饅頭無餡者也。阿蘭陀人、毎用一箇爲常食彼人呼曰「波牟(はん)」添之吃羅加牟羅加牟者鰤魚肉粘萬牟天伊賀油(豕油也)爲脯切片者也。
饅頭者、洛建仁寺(第二世僧)龍山禪師入宋光明帝曆應四年歸朝(元順宗皇帝至正元年也)有林淨因者在彼地爲友因同入朝止住南都二條以造饅頭爲業改林氏號「鹽瀨」。此饅頭之始也。今造法用醴酒溲麪裏餡盛焙籠煖則肥脹再蒸之成其醴糯一升煑飯別麴二合水用一升五合洗去米用花汁盛桶投飯於中一宿成去糟用汁溲麪。
唐僧用黑胡麻(熬硏)塗饅頭黃檗派羹饅麵佛事用之。

五雜組に云ふ。「餛飩(こんとん)」は、即ち今の「饅頭」耳(のみ)の餅に非(あら)ず。又、蒸餅、豆餠、金餠、索餠、籠餠、紅綾、餡餠(あんもち)有り。
本綱(本草綱目)、小麦麪を以て修治する食品、甚だ多く、皆、形に隨(したが)ひて、名を命づ也。惟(おも)ふに、「蒸餠」、其の来ること最も古し。是の酵(こうじ)糟(かす)発成、単に麪で造る所、薬に入れるべし。其の果菜、油膩諸物を以て餡(あん)に為すは、薬に入れず。
群談採余に云はく、諸葛亮、孟獲を征して奏へ凱回(かへ)る日、瀘水に至り、風濤、渡ることあたはず。人の曰く「蛮、邪術多し。須(すべから)く神に禱(いの)るを常の例とし、必ず49人の頭を殺し、以て之を祭れば、怨鬼、自ら散す方、渡るべし」也。亮の曰く「吾れ師(いくさ)を班(かへ)して都に回へるに安( いずくん)ぞ、妄(みだ)りに一人を殺すべきや。吾れ自ら主見有り。乃ち、羊と豚の肉を雜(まじ)へ用て麵(むぎのこ)に和(ま)ぜ、劑と為し、成して假(かり)に人の頭を塑り、為めに「饅頭」と言ふ祭文(さいもん)を作りて、以て祠(まつ)る」と。遂に風息(や)み、浪静まり、渡ることを得たり。此の「饅頭」の名、此に始る。
△按ずるに、「蒸餠」は、即ち「饅頭」に餡無きものなり。阿蘭陀(オランダ)人、毎に一箇用て常食と為す。彼人呼んで波牟(パン)と曰ふ。之に添へて羅加牟(ハム)を吃(くら)ふ。羅加牟は、鰤(ぶり)の魚肉に萬牟天伊賀の油(豕油也)を粘(つけ)て、脯(ほしし)と為そ、切片たるもの也。
饅頭は、洛の建仁寺(第二世僧)龍山禅師、宋に入て、光明帝曆応4年(1341年)帰朝(元順宗皇帝至正元年也)。林浄因と云ふ者有り。彼地に在りて友と為り、因て同じく入朝し、南都二条に止住して、饅頭を造るを以て業と為す。林氏を改めて「塩瀬」と号す。此れ「饅頭」の始め也。今、造法は、醴酒(あまざけ)を用ひて、麪(むぎのこ)を溲(こね)て餡を裏みて焙籠(ほいろう)に盛り、煖(あたため)れば、則ち肥脹る。再(ふたた)び之を蒸して成る。其の醴(あまざけ)は、糯(もち)1升飯に煑(に)、別に麴(こうじ)2合を水1升5合を用ひて洗ひ、米を去り、花汁を用ひ、桶に盛り、飯を中に投じ、1宿にして成る糟(かす)を去り、汁を用ひ、麪を溲る。
唐僧、黒胡麻(熬で硏ぐ)を用ひて饅頭に塗り、黃檗派の羹饅麵(かんまんじゅう)の仏事に之を用ひる。)
https://www.ndl.go.jp/nichiran/data/R/209/209-001r.html
※参考文献:本草綱目啓蒙「蒸餅」
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2555456/44

 饅頭の起源には、仁治2年(1241年)に聖一国師が、中国の宋から帰国し福岡の茶屋の主人に「酒饅頭」の製法を教えたという説と、貞和5年(1341年)に中国からきた林浄因が「薬饅頭」を作りはじめたという2つの説があり、虎屋の「酒饅頭」と塩瀬の「塩瀬饅頭」が双璧をなした。
 林浄因は、山芋(大和芋)を使った皮で漉し餡を包んだ「薯蕷(じょよ)饅頭」(「塩瀬饅頭」「上用饅頭」とも)や縁起物の紅白饅頭を製造し、販売したという。

■塩瀬饅頭の由来
 塩瀬の始祖・林淨因は、主に寺院を対象に、奈良でお饅頭商いを始めました。淨因は、中国で肉を詰めて食べる「饅頭(マントゥ)」にヒントを得て、肉食が許されない僧侶のために、小豆を煮つめ、甘葛の甘味と塩味を加えて餡を作り、これを皮に包んで蒸し上げました。お饅頭の、ふわふわとした皮の柔らかさ、小豆餡のほのかな甘さが、寺院に集う上流階級に大評判となりました。
 当時、日本の甘味には干柿や栗の焼いたもの、お餅に小豆の呉汁をつけるお汁粉の元祖のようなものしかありませんでしたので、画期的なお菓子の誕生ということになりました。日本人は昔から豆類を多く摂取し、小豆好きであったことから、餡饅頭は好評を博したのだと考えられます。
 淨因のお饅頭は、後村上天皇に献上されるまでになります。天皇はお饅頭を大変喜んで淨因を寵遇し、宮女を賜りました。当時、一商人が宮女を下賜されるということは、特別の栄誉でありました。結婚に際し、淨因は紅白饅頭を諸方に贈り、子孫繁栄を願って大きな石の下に埋めました。これが「饅頭塚」として、林淨因が祀られている林神社に残されています。今日、嫁入りや祝い事に紅白饅頭を配る習慣は、ここより出ているものです。
 それから幾代か経て、商いの場は京都に移ります。林淨因の子孫、紹絆は、中国で製菓を修得後日本に帰り、中国の宮廷菓子に学び、山芋をこねて作る「薯蕷饅頭」を売り出しました。この「薯蕷饅頭」が現代塩瀬に伝わるお饅頭の元となりました。
 時代は下り、天正3(1575)年の長篠の合戦。鉄砲の連射を駆使した織田・徳川連合軍が、戦国一の騎馬軍団を擁する武田勝頼を撃退した戦いです。家康出陣の際、塩瀬の七代目林宗二が「本饅頭」を献上しました。「本饅頭」とは、大納言が入った小豆餡を薄い皮で包み、丁寧に蒸しあげた、林宗二考案の品です。家康は、本饅頭を兜に盛って軍神に供え、戦勝を祈願しました。この逸話から、本饅頭を「兜饅頭」とも呼びます。この「本饅頭」は、現在も昔と変わらない製法でお作りしている歴史的趣の深い、塩瀬自慢のお饅頭です。塩瀬は将軍家からも、宮中からも愛され、その繁盛は続きます。明治時代には、宮内省御用を勤め、今日に至ります。塩瀬饅頭は、大和芋の皮をむき、摩り下ろすところから始まります。職人の手による手作業です。耳たぶより少し柔らかい固さの皮に、餡を入れて蒸し上げると、本当に上品なお饅頭が出来上がるのです。

※「塩瀬総本家」公式サイト
https://www.shiose.co.jp/


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