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今日の「英雄たちの選択」の感想

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「曽我兄弟の仇討ち」は、「源頼朝暗殺未遂事件」ではなく、「仇討ち」であり、黒幕がいない単独犯行であったと考えていいと思われる。※英雄たちの選択「頼朝暗殺未遂!? 曽我兄弟敵討ち事件の深層」
(初回放送日: 2022年6月8日(水)午後8:00)
 貧しい兄弟が親の敵を討つ美談として伝えられてきた曽我兄弟の物語。実は「鎌倉殿」源頼朝も標的だった。背景には戦時から平時への移行で高まる御家人たちの不満があった。
 「曽我兄弟の敵討ち」といえば「赤穂浪士の討ち入り」と共に、日本人に長らく愛されてきた美談だ。しかし兄弟は、親の仇だけでなく征夷大将軍に任命されたばかりの源頼朝も襲おうとしていた。いったいなぜ? 舞台となったのは、頼朝が我が子・頼家を後継者として御家人たちに認めさせるべく行った富士野の巻狩り。そして、戦争の時代が終わり平時に向かう中で、鎌倉殿と御家人の関係も曲がり角にあった。美談に隠された深層に迫る。
https://www.nhk.jp/p/heroes/ts/2QVXZQV7NM/episode/te/WJ6YKXL76Q/

 「曽我兄弟の仇討ち」に関しては、「建久4年(1193年)5月28日、富士野での巻狩りの際、兄・曽我十郎祐成と弟・曽我五郎時致の兄弟が、父親の仇・工藤祐経を討った事件」だと承知していたが、実は続きがあるという。
 工藤祐経を討った直後、曽我兄弟は、源頼朝を暗殺しようとしたというのである。曽我兄弟は、源頼朝の御家人(親衛隊)10人を斬った(「十番切」)が、兄・曽我祐成は、10人目の北条時政の側近・仁田(新田)忠常に討たれ、弟・曽我時致は、女装した御所五郎丸に取り押さえられ、後に処刑された。
 とはいえ、『曽我物語』では、弟・曽我時致が源頼朝の寝所に向ったのは、兄・曽我祐成が、死に際に「如何にもして、君の御前に参り、幼少よりの事共、一々に申し開きて死に候へ」(源頼朝の所へ行き、工藤祐経を討つに至った経緯を説明せよ)と言ったからであり、「曽我兄弟の仇討ち」は、「源頼朝暗殺未遂事件」ではなく、「仇討ち」であり、黒幕がいない単独犯行であったと考えていいと思われる。

■『曽我物語』
やや暫く有りて、伊豆の国の住人、新田の四郎に、十郎打ち向かひ、
「如何に曾我の十郎祐成か」
「向かひ誰そ」
「新田の四郎忠綱よ」
「さては、御分と祐成は、正しき親類なり」
「其の儀ならば、互ひに後ろばし見るな」
「左右に及ばず。今夜、未だ尋常なる敵にあはず。ゆひかひ無き人の、郎等の手にかからんずらんと、心にかかりつるに、御辺にあふこそ嬉しけれ」
「一家の験に、同じくは、忠綱が手に掛けて、後日に勧賞に行はれ給はば、御辺の奉公と思ひ給へ」
と言ひて、打ち合ひける。十郎が太刀は、少し寸のびければ、一の太刀は、新田が小臂にあたり、次の太刀に、小鬢を切られけり。然れども、忠綱、究竟の兵なれば、面もふらず、大音声にて罵りけるは、
「伊豆の国の住人、新田の四郎忠綱、生年二十七歳、国を出でしより、命をば君に奉り、名をば、後代に止め、屍をば富士の裾野にさらす。さりとも、後ろを見すまじきぞ。御分も引くな」と言ふ儘に、互ひに鎬をけづり合ひ、時を移して戦ひけるに、新田の四郎は、新手也。十郎は、宵の疲れ武者、多くの敵に打ち合ひて、腕下がり、力も弱る。太刀より伝ふ汗に血と、手の打ちしげくまはりければ、太刀をひらめてうくる所に、十郎が太刀、鍔本よりをれにけり。忠綱、かつのつて打つ程に、左の膝を切られて、犬居に成りて、腰の刀を抜き、自害に及ばんとする所に、太刀取り直し、右の臂のはづれを差して通す。忠綱、今はかうと思ひ、屋形を差して帰りけるを、十郎伏しながら、掛けたる言葉ぞ、無慙なる。
「新田殿、帰るか、まさなし。同じくは首を取りて、上の見参に入れよ。親しき者の手にかからんは、本意ぞかし。返せ、や、殿、忠綱」
と呼ばはられて、実にもとや思ひけん、即ちP361立ち帰り、乳の間切りてぞふせたる。祐成が最後の言葉ぞ、哀れなる。
「五郎は、何処に有るぞや。祐成、既に新田が手にかかり、空しく成るぞ。時致は、未だ手負ひたる共聞こえず、如何にもして、君の御前に参り、幼少よりの事共、一々に申し開きて死に候へ。死出の山にて待ち申すべきぞ。追ひ付き給へ。南無阿弥陀仏」
と言ひもはてず、生年二十二歳にして、建久四年五月二十八日の夜半計に、駿河の国富士の裾野の露と消えにけり。

 『吾妻鏡』では、建久4年(1193年)5月28日」条に「五郎者、差御前奔參。將軍取御劔、欲令向之給。而、左近將監・能直、奉抑留之。此間、小舎人童五郎丸、搦得曾我五郎。仍、被召預大見小平次」(弟・曽我五郎時致は、源頼朝の御前を目指して走ってきた。将軍・源頼朝は、自分の刀を手に取り、これに立ち向かおうとした。しかし、大友能直が留めた。この間に、小舎人の童子・五郎丸が、弟・曽我五郎時致をからめ捕った。そこで大見小平次に渡した)とあり、翌日の源頼朝の尋問に対して弟・曽我五郎時致は、「討祐經事、爲雪父尸骸之耻、遂露身欝憤之志畢。自祐成九歳、時致七歳之年以降、頻挿會稽之存念、片時無忘。而、遂果之。次、參御前之條者、又、祐經匪爲御寵物、祖父入道蒙御氣色畢。云彼云此、非無其恨之間、遂拝謁、爲自殺也者」(「工藤祐経を討った事は、父が殺された恥を雪ぐためであり、遂にこの身に蓄えてきた鬱憤の気持ちが爆発したのである。兄・曽我祐成が9歳、弟・曽我時致が7歳の年からずっと、『会稽の恥』を雪ごうと思い、その気持ちを片時たりとも忘れる事はなかった。そして遂にこれを果たした。次に源頼朝の御前に参じたのは、父の仇・工藤祐経が重んじられ、祖父・伊東祐親が嫌われていたためである。それもこれも、その恨みが無いわけではないので、会って愚痴った上で、自殺するつもりだった」)と言ったとする。

 番組では、冒頭から「曽我兄弟の仇討ち」=「曽我事件」=「源頼朝暗殺未遂事件」だとした。

※「曽我兄弟の仇討ち」=「曽我事件」の真相
①仇討ち=父の仇・工藤祐経を討つ事〔単独犯説〕
②仇討ち=父の仇・工藤祐経&祖父の仇・源頼朝を討つ事〔単独犯説〕
③三浦周行の北条時政黒幕説=源頼朝を討つ〔源頼朝暗殺未遂事件〕
④伊藤邦彦の北条時政黒幕説=源頼朝&頼家を討つ〔暗殺未遂事件〕
⑤クーデター説=源頼朝を討つ〔黒幕は源範頼〕
⑥クーデター説=源頼朝を討つ〔黒幕は坂東武者(有力御家人)〕

 曽我兄弟と北条時政は親しいので、今回の「英雄たちの選択」は、「源頼朝は、黒幕と考えられる北条時政を粛清するか、取り立てるか」であり、私の答えは「証拠があれば粛清し、なければ現状維持」であり、源頼朝の答えは「取り立てる」であった。というか、その前に、源頼朝を暗殺しても、北条時政には利益が無いと思うので、北条時政黒幕説は無いと思うよ。

「曽我兄弟の仇討ち」後に、
・源範頼の追放→誅殺
・大庭景義&岡崎義実の追放→出家
・甲斐源氏・安田義定&義資の粛清
がおきており、『鎌倉殿の13人』では、「源頼朝に不満な御家人(坂東武者)のとりまとめ役である岡崎義実が、曽我兄弟に、北条時政の家人を使って源頼朝を討たせ、源範頼を鎌倉殿にする」という源頼朝暗殺未遂事件(クーデター)であったとした。

※参考記事:「「曽我兄弟の仇討ち」の真相 」
https://note.com/sz2020/n/nfd33396618a1

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 個人的にうけたのは、「曽我物語図屏風」や「曽我物語絵巻」の源頼朝です。中尊寺の源義経の肖像画に似ていて、『鎌倉殿の13人』の源義経が初めて源頼朝に会った時、源頼朝に証拠を求められて、
「顔、顔、顔そっくり」
と言ったシーンを思い出して、笑っちゃいました。

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