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八幡大神出現の地 ー薦神社ー

───八幡大神の出現地はどこか?

説①大隅国一宮・鹿児島神宮(大隅正八幡宮、国分八幡宮)
説②宇佐神宮の祖宮・薦神社(大貞八幡宮)ー八面山、三角池ー
説③豊前国一宮・宇佐神宮(宇佐八幡宮) ー御許山、菱形池ー


1.鹿児島神宮


 鹿児島神宮は、大隅国一宮・鹿児島神宮(鹿児島県霧島市隼人町内)は、天津日高彦火火出見尊と后神・豊玉比売命を祀る神社です。

 震旦国の陳大王の娘・大比留女(天照大神?)が生んだ八幡王子を空船に乗せて流すと、船は日本の大隅国に漂着したという。こうして大隅国に現れた八幡大神は、宇佐に遷り、さらに石清水(男山)に遷ったと『今昔物語集』(巻12第10話)「於石清水行放生会語」にあります。

 初め大隅の国に八幡大菩薩と現はれ在して、次には宇佐の宮に遷らせ給ひ、遂に此の石清水に跡を垂れ在まして、多の僧俗の神人を以て、員ず知らぬ生類を買放たしめ給ふ也。

https://yatanavi.org/text/k_konjaku/k_konjaku12-10

 そして現在、八幡大神は、鹿児島神宮の相殿に祀られています。

<鹿児島神宮の相殿神>
・帯中比子尊(応神天皇の父・仲哀天皇)
・息長帯比売命(応神天皇の母・神功皇后) 
・品陀和気尊(応神天皇=八幡大神)
・中比売命(応神天皇妃・仲姫命) 

 この話が正しいとすると、応神天皇の正体は日本人ではなく、震旦人となります。(天皇家の「万世一系」が崩れます。)ただ、八幡神の出現=人間・応神天皇の(宇美八幡宮での)誕生ではなく、子供が出現して「我は八幡大神なり。応神天皇なり」と言ったという話であり、「八幡大神=応神天皇」ではなく、「八幡大神=応神天皇の生まれ変わり」とか、「八幡大神=応神天皇の魂」と言った方がいいかもしれません。

 創始は社伝によると遠く神代とも、あるいは「神武天皇の御代に天津日高彦穗穗出見尊の宮殿であった高千穂宮を神社としたもの」とされる。和銅元年(708年)に現在地に遷座され、旧社地には現在摂社石体宮(石體神社)が鎮座している。当社の北西13kmの地点には、穗穗出見尊の御陵とされる高屋山上陵がある。
 欽明天皇5年(544年)に八幡神が垂迹したのもこの旧社地とされる。当社を正八幡と呼ぶのは『八幡愚童訓』に「震旦国(インドから見た中国)の大王の娘の大比留女は七歳の時に朝日の光が胸を突き、懐妊して王子を生んだ。王臣達はこれを怪しんで空船に乗せて、船のついた所を所領としたまうようにと大海に浮かべた。船はやがて日本国鎮西大隅の磯に着き、その太子を八幡と名付けたという。継体天皇の代のことであるという。」との記載がある。なお、白井宗因が記した『神社啓蒙』では登場人物が「陳大王」と記されており、娘の名前が八幡であるとされている。
 八幡神は大隅国に現れ、次に宇佐に遷り、ついに石清水に跡を垂れたと『今昔物語集』にも記載されている。
 大隅正八幡の正の字が示すように、鹿児島神宮は八幡宮の根本社だともいわれている。伝承ではかつて国分八幡と宇佐八幡との間に、どちらが正統な八幡かを巡って争いが起き、宇佐八幡は密かに15人(14人とも)の使者を遣わして国分八幡を焼かせたという。その際、燃え上がる社から立ち上る黒煙の中に「正八幡」の字が現れ、それを見て驚き怖れた使者達は溝辺の地まで逃れてきたが、神罰を受けたのか次々と倒れてその数は13人に及んだ。その後土地の人々は異境に死んだ者たちを憐れみ、それぞれが倒れた場所に塚を盛り霊を慰めたが、その数が13であったことから、そこを十三塚原と名付けたといわれている。この十三塚原は鹿児島県の国分平野北方にあり、その北東部には鹿児島空港やこの伝承に基づく十三塚原史跡公園がある。この宇佐八幡の使者に関する伝承には、上記と内容の異なる伝承が他にもいくつかある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2.薦神社と宇佐神宮


 薦神社の神体山は八面山です。山頂が8つある山で、「八ヶ岳」(長野県茅野市豊平)でも、「八ケ峰」(愛知県豊田市坂上町六所山)でもいいと思うのですが、宇佐神宮に現れた「八面鬼・塵輪(八幡大神)」に合わせたネーミングでしょう。
 八幡大神出現地の「三角(みすみ)池」にしても、宇佐神宮の「菱形池」に合わせた表記かな? でも、「三角形の池」ではありません。
 『八幡宇佐宮御託宣集』(霊巻五)「菱形池邊部」には「一面にして三角なり」とあります。つまり、「三本の角が生えた1つの池」で、
チブサン古墳の壁画の「三本角の白いシャーマン」
 =三本角の王冠(上塩冶築山古墳出土)をかぶった卑弥呼
・『ONE PIECE』でいうならイム聖
の頭の形に似ています。

チブサン古墳の壁画の「三本角の白いシャーマン」
『真一騎当千』の卑弥呼
「薦神社絵縁起」

 薦神社と関係の深い宇佐神宮は、小倉山の上に建っています。「山」と言っていますが、実際は古墳で、宇佐の地主神・比売大神が眠っておられるそうです。この比売大神については、卑弥呼説や台与説がありますが、『日本書紀』の記述、御許山の奥宮の磐座が3つの巨岩から成ること、ご神紋が三つ巴であることから、比売大神を祀る宇佐氏が宗像三女神であると定義しています。

※御許山の奥宮へは参道(登山道)があるので、社前まで行けますが、奥へは立ち入り禁止なので、磐座は見られません。(グーグルアースで見られる?)昔は見て回れたようで、『八幡宇佐宮御託宣集』(巻14)「奥宮御許山絵図」には参拝順が書かれています。

 なお、辛島氏は、比売大神を同氏の出身地・田川郡の香春神社(福岡県田川郡香春町大字香春)の神・辛国息長大姫大目命(卑弥呼とも、神功皇后とも)とし、香春神社を「宇佐神宮元宮」としています。

祭神
辛国息長大姫大目命
忍骨命
豊比売命
 日本三代実録は、豊比売命を辛国息長大姫大目命と同一している。  社前には、「第一座辛国息長大姫大目命は神代に唐土の経営に渡らせ給比、崇神天皇の御代に帰座せられ、豊前国鷹羽郡鹿原郷の第一の岳に鎮まり給ひ、第二座忍骨命は、天津日大御神の御子にて、其の荒魂は第二の岳に現示せらる。 第三座豊比売命は、神武天皇の外祖母、住吉大明神の御母にして、第三の岳に鎮まり給ふ」と書かれている。
 『豊前国風土記』逸文には、辛国息長大姫大目命は、昔神羅より渡って来た神であると書かれている。
 辛国息長大姫大目命と神功皇后との関連性は古くから議論されている。応神天皇の母で三韓征伐を行い、朝鮮半島支配に成功した神功皇后は、『古事記』において息長帯比売命・大帯比売命と記されている。辛国は三韓征伐を行った韓国に通じる。辛国息長大姫大目命と神功皇后の同一性が指摘されている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 宇佐神宮については、宇佐、辛島、大神の3家が絡んでいてややこしい!

宇佐氏:宇佐神を祀る。後に宇佐神=比売大神=宗像三女神とする。
辛島氏:田川郡から移住し、比売大神=辛国息長大姫大目命とする。
大神氏:宇佐神宮に、宇佐神=出現した八幡大神・応神天皇を祀る。

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