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第6回「続・瀬名奪還作戦」(動画集)

■時代考証担当・小和田先生

■歴史学者・呉座勇一先生

■濱田浩一郎のYouTube歴史塾

■田中一平先生が解説する「どうする家康」

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■Murakami Musen「歴史ライター水野誠志朗さんに聞いてみた」

■戦国BANASHI

■高橋学長のむさしのチャンネル

■日本史サロン

■前田慶次 戦国時代チャンネル

■かしまし歴史チャンネル

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■ヤギシタ-ドラマ解説-「徹底解説」編

■G-yu〜檜尾健太〜

■松村邦洋のタメにならないチャンネル

■市橋先生「なるほど!歴史ミステリー」

■小川さなえワールド

 母親の「そなたが命を懸けるべき時はいずれ来ます。それまで強く、もっと、もっと強く生きなさい」は「築山事件」の伏線ということですが、これがロングパスなら、父親の「そなたは笑顔が似合う。笑顔を忘れるでないぞ」はショートパスですね。人質交換が終わって、普通なら嬉し泣きしながら抱きつくのに、瀬名は父の言葉を思い出し、苦しいながらも笑顔を作って抱きついた。
 指を噛む癖は、『どうする家康』では、桶狭間への出陣の時、瀬名が「上手く出来ますように」と元康の指にキスしたことに由来しているとしています。桶狭間で「怖い時はどうする?」と酒井忠次に聞くと「妻の柔らかい肌を思い出す」と答えたので、元康は妻がキスした指を噛んだ。以降、怖い時は指を噛むのが癖になった。
 いいドラマ解説って、見れば/読めば、ドラマが10倍面白くなる。であるならば、「史実は・・・です」と脚本家や時代考証を悪く言う解説は視聴者/読者に不快感を与えかねない悪い解説ですね。「今回のOPは苦無(くない)でしたね。前回は鶏が8個の金の卵ならぬ8枚の銭を生んだ。これは、鶏を飼っている本多正信が銭をばら撒く伏線でしょうけど、なぜ8枚かお分りですか? 八鳥で野鳥、いや、服部だからですよ~。オシャレですね~」って解説の方が好まれるであろう。

■歴女のモトコマ 大河ドラマ「どうする家康」感想動画

■時代考証・平山優先生のツイート

大河ドラマ「どうする家康」第6回「続・瀬名奪還作戦」はいかがでしたでしょうか?さて、今回に関する時代考証のポイントについてお話ししましょう。

(1)上之郷城攻撃に忍びが活躍したこと

 今回の上之郷城攻めでは、伊賀衆のほかに、甲賀衆らが参加していましたね。前回の解説で、『三河物語』にも、上之郷城は忍びによって攻略されたと記されていることを紹介しました。今回登場した甲賀衆の参加は、『武徳編年集成』を始めとする軍記物に記述があります。同書によると、松井忠次が召し抱えていた甲賀の諜者伴中務、同太郎左衛門、同与七郎を始め、甲賀の多羅尾四郎兵衛麾下の忍び18人を城に潜入させたとあります。彼らは、城に火を放ち鵜殿父子三人が城から脱出しようとしたところを、伴与七郎が伏兵として城外に待ち伏せしていたので、子供二人は捕縛され、鵜殿長照は駿河に逃れたとあります。一方で異説として、長照は殺害されたとも記録しています。そして伴与七郎には感状が与えられたとされています。漫画家すずき孔さん@kou_mikabushiも、ツィートで紹介されておられましたが、『石川正西聞見集』という記録によると、松井忠次が、東条城に甲賀衆の物頭の伴中務兄弟らを召し抱え、朝夕の食事を一緒にするほど手厚く処遇したといい、彼のおかげで甲賀と伊賀の忍びが多数集まったとあります。これを忠次は引き連れ、元康の命令で上之郷城を攻めたという。今回のドラマでは、忍びたちは武士から蔑視され、軽んじられています。それが当時の常識でした。ところが、すずき孔さんも指摘しておられますが、松井忠次の処遇は異例といえ、合戦を勝ち抜くために命がけで戦う者どうしとして、彼らにも敬意を忘れなかったという松井の器量が垣間見えますね。そして、これら軍記物に登場する伴与七郎の活躍や、松井忠次との関係については、文書で証明できるのです。 これは『譜牒余録』巻55に掲載されている、松平元康感状写です。全文を紹介しましょう。
今度鵜殿藤太郎其方被討捕候、近比御高名無比類候、我等別而彼者年来無沙汰候、散心霧弥祝着申候、委細左近・雅楽助可申入候、恐々謹言  
 二月五日  松蔵 元康御書判
伴与七郎殿 参
この文書は、これまで写本しかなく、果たして信頼してよいか迷うところでしたが、何と原本が発見され、まちがいなく家康の正文であることが確認されました。この文書は、泰巌歴史美術館が所蔵しています。写真によると、感状は折紙で、付年号(永禄5年という年号)がないことがわかり、家康にとっては比較的薄礼の書札礼(手紙を書く時の礼法式のこと)です。これは、家康にとって宛所の伴与七郎の身分や地位が低いことを意味しています。そしてこの文書には、家康が感謝の意を表しつつ、詳細は「左近」と「雅楽助」より申し入れるとあります。この「左近」こそ、松井忠次のことであり、松井が甲賀衆を連れて参戦したという軍記物の記述が正しかったことが確かめられるのです。さらにこの文書は、新たな事実を明らかにしています。それは、松井忠次とともに「雅楽助」もまた、甲賀衆との深い関わりを示唆しているのです。この「雅楽助」とは、酒井政家(西尾城主)のことで、彼もまた忠次同様、忍びを雇用していたのでしょう。三河国衆が、広く忍びを雇用していたことを推測させる重要な史料といえます。

(2)上之郷城に攻め込んだ忍びが火矢を揚げていた場面

 上之郷城に忍びが突入するのを、今かいまかと待ち焦がれていた名取山本陣の元康らが、城から揚がる火花を見て、総攻撃を下知するシーンがありました。あれをみて「花火なんかあげるのか?」など、疑問を持たれた方もおられたようです。実は、これは忍びに関する記録に登場し、しかも再現実験まで行われ、事実と考えられているのです。近世初期に成立した『万川集海』には、火薬などを利用した様々な火器が記録されています。このうち、「大国火箭」(たいこくひや)「飛火炬」(とびひたき)が、今回の火器に相当します。この「大国火箭」は、①通常の火矢として使用される場合もあり、②味方への合図としても便利で、③風雨にも消えない、という利点があった。三重大学国際忍者研究センターは、科学者も共同研究者に加え、『万川集海』などの忍術書に見える武器の再現実験を行っています。そして、「大国火箭」の再現と飛翔実験を、昼間と夜間に実施したところ、飛距離は100メートル以上、そして夜間での火矢は「真っ赤な炎を吹きながら飛翔する火矢は真っ暗ななかではっきり視認できた。よって、飛行方向をきちんと制御することができると夜の暗闇で遠くに味方に合図する手段としては大変優れていることがわかった」と報告されています。これらは山田雄司編・三重大学国際忍者研究センター監修『忍者学大全』東大出版会に収録されている、荒木利芳「忍者の火器・火術」という論文をご参照ください。とにかく、この論文集は凄いの一言で、必見ですよ。ということで、今回の上之郷城における火花のような飛翔物は、「大国火箭」であり、当時の忍びが使用した道具として確かな根拠があるものなのです。

(3)人質交換の実態について

 今回は、通説に準拠したストーリー展開でした。今川氏真が三河に出陣し、吉田城に入ったこと、そこまで瀬名母子と関口夫妻を伴ってきたこと、となっていました。これは脚色です。実際には、竹千代と関口夫妻は駿府におりました。ただ、氏真の三河出陣は史実です。問題なのは、その時期がはっきりしないのです。永禄5年2月15日に氏真は、小坂井八幡神社(豊川市)に禁制を発給しているので、軍勢を動かしたのは間違いありません。でもこの時すでに、上之郷城は陥落していました。私は、氏真の三河出陣は、上之郷城救援のためだったが間に合わなかったと考えています(黒田基樹氏は『家康の正妻築山殿』平凡社新書では違った見方をしています)。そしてこれが氏真が三河に出陣した最初で最後になりました。駿府にいた竹千代と、鵜殿長照の二人の息子との人質交換については、氏真から申し入れがあったとする説(『三河物語』)、家康側からの申し入れであったとする説(『松平記』他)があります。今のところ、家康側から申し入れ、氏真が了承したという説が支持されています。そして何度も申し上げていますように、人質となっていたのは、竹千代一人であり、重臣石川数正が決心の覚悟で今川方に乗り込んでいったのです。

(4)男を上げた石川数正

 石川数正は、後に徳川家中から出奔してしまいますが、『三河物語』は人質交換の時の数正を大いに褒め称えています。同書によると、竹千代は、父家康が今川から離叛したので、駿府では「すぐに殺せ」「明日殺せ」などの声がかしましかったといい、関口氏純の孫なので何とか無事だったといいます。すると石川数正は「幼い若君おひとりで殺されるならば、御供する者もないのは、人の目にも寂しく映ることだろう。ならば私が参ってお最期の御供をしよう」と申し出て、駿河に出かけていったという。数正の行動に、身分の上下に関わりなく、感動しない者はいなかったという。そして、人質交換が成就し、数正は竹千代とともに岡崎に戻ってきた。岡崎の人々は大いに喜び、主従を迎えに出た。石川数正は、幼い若君を自分の鞍の前に乗せ、大きな八の字の髭をピンと反らし、いかにも自慢気だったと記されています。家康重臣石川数正の武勇談として、とても有名ですね。今回の松重さんの数正も、若君をしっかりと抱き、敵から弓、鉄炮を浴びせられても、自分が楯になるとの気概が画面からも伝わってくる熱演でした。

(5)鵜殿長照とその息子たちと氏真との関係とは

 今川氏真が、家康方と人質交換をしたことについて、『三河物語』は「氏真はさてさて阿呆か、竹千代様と鵜殿とかえるなどというばか者か」といわれたと記されています。なぜ氏真は、鵜殿長照の息子氏長、氏次と竹千代の交換を了承したのか。通説では、鵜殿長照は。今川義元の姉妹を妻としていた今川一門で、息子氏長・氏次は氏真の従兄弟に相当する。そのため、今川一門の鵜殿兄弟を見捨てることが出来ず、人質交換に応じた、とされています。ところが、現在、今川氏の研究者はほぼこの通説を否定しています。鵜殿長照の妻が、義元の姉妹とする記録は、近世中期以降にみられるもので、史料として裏付けできないというのがその理由です。ではなぜ氏真は人質交換をしたのかといえば、それは家康方に確保されていた鵜殿長照の息子二人を見殺しにしてしまったら、今川氏の三河における威信の損失に繋がるおそれが高かったからだと考えられます。氏真は、家康に付いた東三河の国衆の人質を処刑しました。しかしそのことで、三河衆の離叛を食い止めることはできませんでした。こうした経緯もあって、氏真は今川の威信を保つべく、人質交換に応じたのでしょう。なお、鵜殿氏長・氏次兄弟は、後の家康に仕えました。氏長は、遠江二俣城を警固し、家康の主要な合戦に従って戦功を挙げ、御使番となり、大坂の陣にまで参加しています。寛永元年に76歳で死去しました。氏次は、慶長5年、関ヶ原合戦の前哨戦として名高い伏見城の攻防戦で、鳥居元忠、深溝松平家忠らとともに戦死しています。また、氏長と氏次の諱については、必ずしも確証がありません(氏次は、『寛政重修諸家譜』にすら「某」とあるだけで、諱は記録されておらず、軍記物によるものです)。もし本当ならば、今川氏からの偏諱であり、「氏」を拝領したとすれば、かなりの家格だったと推定され、今川一門という説にも一理あることになりますが、今後の課題です。

(6)関口氏純夫妻の成敗について

 通説では、家康が今川氏から離叛したことにより、関口氏純は切腹を命じられたといわれてきました。これは『三河物語』以来の通説です。『松平記』なども、築山殿が「私こそが家康の本妻であり、信康の生母である。しかも私の父は家康のせいで命を落としており、皆は私を尊重してしかるべきなのに、このようにむげにされていて無念だ」といつも繰り言をいっており、そのため家康と築山殿の夫婦関係が悪くなっていた、と記しています。こうしたことから、戦国史研究者たちは、関口氏純は氏真に成敗されたのだろうと考えていました。ところが、関口刑部少輔氏純は、永禄9年まで関口伊豆守氏純として存命していることが史料発掘の結果明らかとなりました。このことから、関口が成敗されたのは誤りであり、『松平記』などの記述は否定されることとなります。また、一部の方から、罪人の父母にまで縁座・連座が適用されるのはありえないだろうとの見解が出されています。上記のように、氏純は生き延びているのですから、家康離叛の責めを負うという形での成敗はありません。ただ、関口家の今川家中における地位が、これをきっかけに大きく変動(失墜)した可能性は大いにあります。関口氏純は、家康の義父であるとともに、今川家中における取次役(指南)です。取次役は、自分が担当していた国衆などが離叛すると、責任を問われ、場合によっては命を狙われることもありました。石川数正、片桐且元、大野治長などはまさにこの事例に相当します。もし関口氏純が、家康のために命を落としたという『松平記』の記述が正しいとすれば、それは家康離叛の時ではなく、永禄11年12月の今川氏滅亡の前後に、家康に通じる動きをしたからなのかも知れません。このことは、宿題として残しておきたいと思います。

今回の #時代考証の呟き は以上です。今宵はここまでにいたしとうござりまする。また次回をご期待下さい。

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