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豊田珍彦『東三河道中記』

砥鹿神社は三河一宮で今国幣小社です。大己貴命を祭り、文徳実録嘉祥三年七月三河国砥鹿神授従五位下とあるを初め度々昇叙の御沙汰がありました。社伝では大宝年間文武天皇の御悩で鳳来寺の利修仙人をお召しになる勅使として、草鹿砥公宣卿が当国に下られた際神託があつて此処に祀られたといひます。現在の社殿は余り古くはありませんが優美軽快な流れ造りで周囲の風物と誠によく調和して居ります。もう二三百年で国宝になるかも知れません。
 宝物には御西院天皇第六皇女宝鏡寺宮御染筆の伊勢物語上下二冊と銅鐸が一口あります。この銅鐸は天保年間に北設楽郡田峰で発見されたもので袈裟襷紋の高さ一尺二寸程の小形なものです。古文書も昔は沢山あつたやうですが殆んど散逸しまして、ただ文政十年に正一位を贈られた神位記があるのみです。祭礼は一月三日の田遊祭これは菟足神社や財賀寺で行はれるのとよく似て居りまして、五月四日の例祭に流鏑馬が行はれ、それに一月十五日、本宮山上の奥宮で行はれます管粥祭といふのは、管を入れ粥を煮まして其管に米粒の入る加減で其年の豊凶を占ひます。農家もこれによつて其年の方針を定めるのでありまして、これは石巻神社にもありますが古い遺風と見られて居ります。
 社家の草鹿砥氏は神社の前方に邸があり、維新当時の宣隆神主は国学者で、勤王家として非常な傑物でして当時京都にあつて、国事に奔走して居る内、明治二年六月佐幕派の為に暗殺されたといはれますが誠に惜しい人物でした。

本宮山 本社の背後に聳えてゐます本宮山は本茂山ともいひ、奥宮のある処でありまして参詣人が絶えません。山麓から五十町といつても三十町位なものですが、頂上の景色は極めてよく、東に富士南に伊勢から太平洋、西に伊吹山北には御嶽から加賀の白山まで望む事が出来まして、渥美湾など泉水位に見え、十五万の人間がしのぎを削つて争ひつゝある豊橋など眼にもとまらぬ位です。人間もたまには高所へ登つて大自然にふれ気分を換へる必要があるやうに思ひます。

大田白雪は、この町の人で、俳人としては可成有名でした。芭蕉の門人で、三河小町などといふ俳書を編みました。又中々の学者でして、殊に郷土の歴史を研究しまして、古文書記録から金石文の探索、遺跡伝説の研究に没頭すること三十余年、十数種の著書があり、三河二葉松も数人の共著となつてゐますが実は白雪の業蹟だといひます。寛文から享保へかけての人で、東三河三十三観音巡礼はこの白雪等の主唱によつて行はれるやうになりました。それに就て三河観音道場来歴なる一書もあり、崇敬すべき我々の先輩です。

鳳來寺は一名煙巖山ともいひ、全山殆んど火山質で主に流紋岩ださうです。最頂部を瑠璃山といつて海抜二千五百五十七尺あります。この山は地質學及び植物學上の絶好な標本である許りでなく風影がよく歴史に富んで居ますので、全山が天然紀念物に指定されました。
 山麓から本堂まで凡そ十町の間に千六百の石段があり、途中二町許りの處に仁王門があります。これは徳川初期の建築で多分慶安頃のものでせう。仁王尊の偉大なのが頑張つてゐます。集古十種に載せられた鳳來寺の額はこの門に掲げてあります。門のすぐ下の石段の途中に、芭蕉の句碑がありまして、
 「こがらしに岩吹きとがる杉間哉」
 とあり、建てたのは明和三年ですが大分風化して余命幾何もないといつた有様です。この門から少し登つた處に傘杉と呼ばれる大木があり、樹高三十間余、圍り二丈二尺で枝下二十一間に達しますが、まだまだ素晴しい勢で成長しつヽあります。これから三町許り参りますと尼寺が一つ、その上に醫王院がありますがこれが塔頭で、此附近から四町許り上の本堂邊にかけて森青蛙が住み、盛夏の候樹上に泡を吹いて卵を生む有様は實に面白く感じます。本堂の少し下に藥師の露佛があり、相當大きな物でして、これだけのものをよく此山上まで運んだものと感心させられます。出來たのは享保十六年、嘉永七年に一度修繕してゐます。本堂は數度の火災で今は假本堂と二三の小建物がある丈ですが、近く大規模なものが建築される筈です。そこを通つて少し行くと東照宮の社があります。もとは寺の支配で此方は幸ひに火難を免れ慶安年間創立のまヽで、老杉に圍まれた一段高い處に朱塗の社殿があり、それを圍つて立派な石燈籠が十四基と鳥居、水盤などがあります。これは近くは吉田、田原、濱松から、遠くは福嶋、宇都宮、奥州棚倉などの城主がはるばると献納したもので、徳川氏の勢力を雄辨に物語つてゐます。社の上方には鬼の味噌蔵、鬼の酒蔵と呼ぶ洞穴がありますが、假本堂の左側を通つて岩壁を登つて行くと八町許りで奥院に達します。
 その途中には七本杉といふ見事な老樹がありましたが追々に枯損して今二本だけ殘つてゐます。何れも圍り三十尺以上あつて全山を威壓してゐます。
 この寺は聖武天皇の御發願で利修仙人が創めたものと傳へられ、仙人は七本杉の一本を切つて佛像を刻み安置したといひます。傳説では文武天皇御惱のとき利修仙人をお招きする為め草鹿砥卿が登られたとか、役行者が利修仙人に會ひに來たが路が惡く困つたともいひますし、又徳川家康は此寺に祀る藥師の十二神將の一人寅童子の化身で、家康が生れたときその寅童子が失はれ、死ぬと又現はれたなど馬鹿氣たこともいつてゐます。
 境内に東照宮を祀つてありますのはその庇護が厚かつたからです。昔は山中に二十ヶ寺もあり、それが天台と眞言の二派に分れ盛大なものでして、こヽにも安達盛長が建久の頃造營したといふ歴史があり、今は古義眞言宗で全國でも指折りの寺です。數度の火災に寶物も古文書も殆んどありませんが、此山中で每年夏の夜を鳴き明す靈鳥佛法僧と、二月の末に行はれる田樂祭は有名なもので、雅俗共に遠近から出掛る人々で相當の賑ひを見せてゐます。
 何しろ徳川時代には千石の朱印地を持ち覇を鳴らした寺ではありますが、すつかり荒廢した現在ではむしろ風景として賞美されてゐると思ひます。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1108072

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