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2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(第40回)「罠と罠」

1.閑院内裏の造営と叙位

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■『吾妻鏡』「建暦3年(1213年)3月6日」条
建暦三年三月大六日丁未。天霽。彈正大弼仲章朝臣使者、自京都到來。去月廿七日、閑院遷幸。今夜、即、被行造宮賞。將軍敍正二位給。仍、送進其除書。
 正二位源實朝。從二位藤光親(上卿)。正五位下平義時。同朝臣相摸國重任。此外權弁經高、大夫史國宗、檢非違使明政賞遂可申請云々。
(中略)此條々、仲章朝臣所注申也。將軍家、自令披覽御云々。

(建暦3年(1213年)3月6日。空は晴れ。源仲章の使者が京都から来た。先月の27日(2月27日)に後鳥羽上皇は閑院内裏へ遷った。その遷った日の夜、すぐに、造営の勧賞を行った。将軍・源実朝は(従二位から)正二位に上がった。それで、その通知書を送る。
・(源頼朝の極位と同じ)正二位に源実朝。(官職は据え置き。)
・従二位に藤原〔葉室〕光親(官職は筆頭)。
・正五位下に北条義時。(官職は)相模国守を重任。
・平経高、小槻国宗、中原明政については追加申請とのこと。
(中略)これらの条々は、源仲章が書いてよこしたものである。将軍・源実朝は自ら読まれたという。)

 閑院(かんいん)は、二条大路(京都市中京区押小路通小川西北角)にあった藤原氏の邸宅である。庭には泉が湧き出ており、その閑雅な風情から「閑院」と名付けられたという。後に天皇の「里内裏」となり、後鳥羽天皇以降は8代にわたって皇居「閑院内裏」として使われた。(正元2年(1259年)の焼失後は再建されなかった。)

 この建暦3年の造営には計画と違う点が多々あり、何度もやり直し、建設費が膨らんだ。途中、後鳥羽上皇が視察に来たが、何も言わずに帰ったという。鎌倉幕府のお手並み拝見というか、完成後に難癖をつけるつもりだったのであろうか?

■太宰治『右大臣実朝』
このとしの三月、弾正大弼仲章さまの御使者が、京都より到着なさいまして、去月二十七日京都の御所に於いて、このたび閑院内裏御竣工につきその造営の賞が行はれ、将軍家正二位に陞叙せられた事の知らせがございまして、昨年の暮、従二位に叙せられたばかりのところ、今また重なる御朝恩に浴し、これすでに無上の光栄、かたじけなさにお心をののいて居られる御様子に拝されましたが、さらにその除書に添へられ、かしこくも仙洞御所より、いよいよ忠君の誠を致すべし、との御親書さへ賜りました御気配で、その夜は前庭に面してお出ましのまま、深更まで御寝なさらず、はるかに西の、京の方の空を拝し、しきりに御落涙なさつて居られました。

2.「泉親衡の乱」

■太宰治『右大臣実朝』
このとしの二月にも信濃国の住人、泉小次郎親平といふ人が、相州さまを憎んで亡きものにしようと内々謀逆を企ててゐたのが、未然に露顕して鎌倉中が大騒動になつたといふ事件がございました。この泉小次郎親平といふ人は、前将軍左金吾禅室さまの三男若君、千寿さまを大将軍に擁立して、いまは時を得顔の北条一族を殲滅せんとの大陰謀を企て、建暦元年頃よりひそかに同志を募つて居りましたのださうで、直接、当将軍家に対しては逆意がなかつたやうでございますが、何せそのお傍に控へて権力を振ふ相州さまが憎くて、それにまたこの泉親平に劣らず、かねてより相州さまをこころよからず思つてゐた御家人もなかなか多かつた様子で、たちまち同志がふえて一大勢力になりかけた時、二月十五日、千葉介成胤さまが、安念坊といふ挙動あやしき法師を捕へて、相州さまのお手許に差し出しました。これが大陰謀露顕の端緒で、その安念坊といふ法師は、謀逆の遊説使のやうなものでございましたさうですから、大いにその法師は責めたてられ、つひにその自白に依り、同志百三十余人、伴類二百人ことごとく召しとられ、相州さまの下知で、ただちに断罪あるいは流罪に処せられた様子でございますが、叛逆の張本人たる泉小次郎親平だけは、いづかたへともなく逃れ去つておしまひになつたさうで、相当の豪傑でしかも機敏のお方だつたらしく思はれます。

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           ▲守川周重「星月夜見聞実記 鎌倉営中問答」
          (荏柄平太:市川団十郎、北条義時:市川左団次)

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▲「星月夜見聞実記 鎌倉営中の場」(左から、古郡保忠:尾上菊五郎、筑波左衛門:市川団右衛門、荏柄の平太:市川団十郎、和田義盛:中村仲蔵、源実朝:市川小団次、北条義時:市川左団次)
 昔、浮世絵は「1枚1万円」と言われた。「星月夜見聞実記 鎌倉営中の場」は3枚組みなので3万円だったが、今は暴落して1/6の5千円前後である。今は浮世絵を買い集めるチャンスなのだが、資金が無い。円安で、日本の文化財が外国人に買い占められ、海外に流出しそうだ。(飾るには、経年劣化で色あせた本物よりも、複製の方が安いし、色鮮やかで綺麗なんだけどね。)

【登場人物】

泉親衡:「泉親衡の乱」=北条義時暗殺計画の首謀者。親平とも。
阿静坊安念:御家人達に北条義時暗殺の共謀を勧誘して回った僧侶。
和田義直和田義重:和田義盛の子。共犯者として逮捕された。
和田胤長:和田義盛の甥(実弟の子)。荏柄平太とも。

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泉小次郎親平 六孫王経基、五男・下野守満快の後胤・泉二郎公衡の嫡子也。大力無双の勇士。建暦三癸酉年、党を語ひ、北条一家を亡さんとす。事、露れ、討手を向らる。討手・工藤祐友を討て逐電し、行方知らず。

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阿静坊安念 信州の産にて青栗七郎為広の弟。幼少にて出家し、叡山に登て天台の要旨を得、碩学にして古留那の弁あり。力量三人に対す。泉小次郎親平が義気を感じ、鎌倉の説をよ勉む事、露れ、擒と成、四国に配流。

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荏柄平太胤長 和田左エ門尉平義盛、末の弟・和田五郎義長の子也。建仁年中、伊豆国伊東崎の洞中に入、大蛇を斬。建暦三癸酉年、泉小次郎が陰謀に組し、擒と成、義時の悪を罵、一族の前を引渡され、奥州岩瀬郡に配流。和田義盛滅亡の時、配所に殺さる。弓馬達し、強力の勇士也。和田なれども荏柄に宅地あるゆゑ、時の人、氏の如く呼。

「泉親衡の乱」=北条義時暗殺計画は、阿静坊安念が逮捕され、自白によって未然に防ぐことが出来た。また、共犯者(中心人物(張本)130人、その家来(伴類)200人の330人)が判明した。この中に、和田義盛の四男・和田義直、五男・和田義重、甥・和田〔荏柄〕胤長が含まれていた。首謀者・泉親衡は大倉御所付近の筋替橋の戦いで、幕府軍の大将・工藤祐友を破るも逃走し、行方不明となった。(泉親衡は、「和田合戦」に、和田方の武将として再登場するが、『鎌倉殿の13人』では、「泉親衡の乱」の直後に泉親衡が行方不明になったのは、泉親衡の正体が後鳥羽上皇に鎌倉を乱すように頼まれた源仲章だからだとした。これはありえない。泉親衡と源仲章は別人である。源仲章が泉親衡を殺して泉親衡になりすましていたというのであれば、ありだが。
『鎌倉殿の13人』の阿波局=伊東八重はありえないが、どうも、これは時代考証の学者の入れ知恵のようである。ところが、最近は、源実朝=同性愛者、鶴丸=平盛綱、泉親衡=源仲章と、ちょっと調子に乗りすぎてないかい?)

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               ▲市川団十郎の荏柄平太「星月夜聞実記」

 やゝ籠のとりこにならんことをしも知らて雀の塒はなるる(市川団十郎)
 縄かけて引提て行鰹かな(守川周重)

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■『吾妻鏡』「建暦3年(1213年)3月9日」条
建暦三年三月大九日庚戌。晴。義盛〔着木蘭地水干葛袴〕、今日、又、參御所。引率一族九十八人、列座南庭。是、「可被厚免囚人胤長」之由、依申請也。廣元朝臣爲申次。而、「彼胤長爲今度張本、殊廻計畧」之旨、聞食之間、不能御許容。即、自行親、忠家等之手、被召渡山城判官行村方。「重可加禁遏」之由、相州被傳御旨。此間、面縛胤長身、渡一族座前、行村令請取之。義盛之逆心、職而由之云々。

(建暦3年(1213年)3月9日。晴れ。和田義盛(木蘭地の水干に葛袴というスタイル)は、今日もまた大倉御所へ来た。一族98人を引き連れ、南庭に並んで座った。これは、「囚人・和田胤長を赦免して下さい」と申請するためである。大江広元が取り次いだ。しかし、源実朝は、「この和田胤長は、今度の事件の張本(主犯格)で、特に計略を廻らした」と聞いていたので、許容しなかった。そのまま、(北条義時の家人である)金窪行親と安東忠家のもとから、(侍所の)二階堂行村(二階堂行政の子)へ引き渡された。「引き続き禁固するように」と、北条義時は、源実朝の言葉を伝えた。この時、和田胤長を後ろ手に縛りあげ、和田一族が座っている前で引き渡し、二階堂行村が受け取った。和田義盛の反逆心は、これが職(もと)だという。)

 さて、「泉親衡の乱」といえば、「荏柄平太縄付き問答」と決まっていたが、『鎌倉殿の13人』の縛られた荏柄平太(和田胤長)は、堂々としておらず、弱々しかった。伊豆の洞窟で大蛇を斬り殺した勇者には見えなかった。
 今の人は、「荏柄平太縄付き問答」を知らない。この理由は、
①今の学校の日本史の授業は「人物日本史」ではない。(人物については小説やドラマで知る。)
②昔はテレビがなかったので歌舞伎を見に行ったり、ラジオがなかったので講談を聞きに行ったりした。(昔の人は、歌舞伎や講談が取り上げられた事件や人物に詳しい。)
ということであろう。
 「泉親衡の乱」の次は「和田合戦」である。「和田合戦」といえば、「朝比奈が門破り」と決まっていたが、『鎌倉殿の13人』では「荏柄平太縄付き問答」のように扱われない?

※『鎌倉星月夜』という講談がある。内容は「和田合戦」である。(「星月夜」は「月のない夜」のことで、太陰暦では毎月1日の夜のことである。「和田合戦」は5月2日から翌3日に行われた。ほぼ星月夜の5月2日の夜戦では、御所が焼失した。)この講談『鎌倉星月夜』の山場は「荏柄平太縄付き問答」と「朝比奈が門破り」である。歌舞伎にも『星月夜聞実記』(山場は市川団十郎が得意とする演目「新歌舞伎十八番」内の『荏柄問答』)がある。
 なお、「星月夜」とは、鎌倉の異名でもあり、『星月夜聞実記』という本のタイトルには、「『鎌倉見聞志』を改正した読本」という意味が込められている。

「泉親衡の乱」で最も損をしたのは、荏柄の屋敷を奪われて陸奥国に流罪となった和田〔荏柄〕胤長である。(和田義直と和田義重は、父・和田義盛のこれまでの功績により許された。和田〔荏柄〕胤長は、「和田合戦」の後、配流地で処刑された。享年31 )
 最も得をしたのは、和田〔荏柄〕胤長の屋敷を得た北条義時である。和田〔荏柄〕胤長の屋敷を奪ったのは、「挑発」という意味もあるが、和田〔荏柄〕胤長の屋敷が戦略的に不可欠な位置にあったので、危機管理として奪ったのであろう。


三浦義明┬杉本義宗──┬和田義盛┬長男・和田常盛
     │      │    ├次男・和田義氏
     │      │    ├三男・朝夷奈義秀(栄信)
     │      │    ├四男・和田義直(内藤正記)
          │      │    ├五男・和田義重(林雄大)
       │      │    ├六男・和田義信
       │      │    ├七男・和田秀盛
       │      │    └八男・杉浦義国
       │      ├和田義茂
       │      ├和田義胤
       │      ├和田義長─和田〔荏柄〕胤長(細川岳)
       │      └和田宗実─藤原秀宗────藤原秀康
       └三浦義澄──┬三浦義村(山本耕史)─┬三浦泰村
             └三浦胤義(岸田タツヤ)└北条泰時室(福地桃子)

★嬉しかった事。「歩き巫女が「和田合戦」の予言をする」という予想があたったこと。
https://note.com/sz2020/n/n59a7037cb345

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▲北条時政の子(『鎌倉殿の13人』の設定)

北条四郎時政┬長男・三郎宗時    (片岡愛之助)  :母・伊東祐親の娘
(坂東彌十郎) ├長女・政子=源頼朝室 (小池栄子)   :母・伊東祐親の娘
      ├次男・江間小四郎義時 (小栗旬)       :母・伊東祐親の娘
      ├次女・実衣=阿野全成室(宮澤エマ)   :母・伊東祐親の娘
      ├三女・ちえ=畠山重忠室(福田愛依)   :母・?
      ├四女・あき=稲毛重成室(尾碕真花)   :母・?
      ├三男・五郎時連→時房 (瀬戸康史)      :母・?
      ├?女・きく=平賀朝雅室(八木莉可子)  :母・りく
      ├?女・?=滋野井実宣妻(?)  :母・りく=牧宗親の妹
      ├?女・?=宇都宮頼綱室(?)  :母・りく=牧宗親の妹
      ├四男・遠江左馬助政範 (中川翼):母・りく=牧宗親の妹
      ├?女・?=坊門忠清(坊門信清の子)室(?):母・不明
      ├?女・?=河野通信室(?):母・不明
      └?女・?=大岡時親(牧宗親の子)室(?):母・不明

北条義時の子(『鎌倉殿の13人』の設定)

北条義時──┬長男・金剛→頼時→泰時(坂口健太郎):母・伊東祐親の娘
(小栗旬)    ├次男・朝時(髙橋悠悟):母・比奈=比企朝宗の娘
       ├三男・重時(加藤斗真):母・比奈=比企朝宗の娘
       ├長女・竹殿=大江親広室(?):母・比奈=比企朝宗の娘
       ├四男・有時(?):母・?=伊佐朝政の娘娘
       ├五男・政村(?):母・のえ=二階堂行政の孫娘
       ├六男・実泰(?):母・のえ=二階堂行政の孫娘
       ├七男・時尚(?):母・のえ=二階堂行政の孫娘
       ├次女・?=一条実雅室(?):母・のえ=二階堂行政の孫娘
       ├?女・?=一条実有室(?):母・不明
       ├?女・?=中原季時室(?):母・不明
       ├?女・?=一条能基室(?):母・不明
       ├?女・?=戸次重秀室(?):母・不明
       └?女・?=佐々木信綱室(?):母・不明

源頼朝の子(『鎌倉殿の13人』の設定)

源頼朝──┬千鶴       (太田恵晴)   :母・八重=伊東祐親の娘
(大泉洋)   ├長女・一幡(大姫)(南沙良)    :母・政子=北条時政の娘
      ├長男・万寿→頼家 (金子大地)   :母・政子=北条時政の娘
      ├能寛→貞暁    (?)           :母・?=常陸念西の娘
      ├次女・三幡(乙姫)(太田結乃)   :母・政子=北条時政の娘
      └次男・千幡→実朝 (柿澤勇人)   :母・政子=北条時政の娘

源頼家の子(『鎌倉殿の13人』の設定)

源頼家───┬長男・一幡    (相澤壮太):母・せつ =比企能員の娘
(金子大地)  ├次男・善哉→公暁 (寛一郎) :母・つつじ=賀茂重長の娘
        ├三男・千寿丸→栄実(?)   :母・?=一品房昌寛の娘
        ├長女・竹御所   (?)   :母・?=源義仲の娘
        └四男・?→禅暁  (?)   :母・?=一品房昌寛の娘

▲NHK公式サイト『鎌倉殿の13人』
https://www.nhk.or.jp/kamakura13/

▲参考記事

・サライ 「鎌倉殿の13人に関する記事」
https://serai.jp/thirteen
呉座勇一「歴史家が見る『鎌倉殿の13人』」
https://gendai.ismedia.jp/list/books/gendai-shinsho/9784065261057
・富士市 「ある担当者のつぶやき」
https://www.city.fuji.shizuoka.jp/fujijikan/kamakuradono-fuji.html
・渡邊大門「深読み「鎌倉殿の13人」」
https://news.yahoo.co.jp/byline/watanabedaimon
・大迫秀樹「「鎌倉幕府の謎」源頼朝と北条義時たち13人の時代」
https://gentosha-go.com/category/t966_1・Yusuke Santama Yamanaka 「『鎌倉殿の13人』の捌き方」
https://note.com/santama0202/m/md4e0f1a32d37
・刀猫    「史料で見る鎌倉殿の13人」
https://note.com/k_neko_al/m/m0f7e5011a2ac

▲参考文献

https://note.com/sz2020/n/n7aec3eacdf80

・毛利豊史「源実朝試論」
https://core.ac.uk/download/pdf/80536497.pdf




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