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『東海道名所図会』「池田宿」

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 いにしへは天竜川の西岸にあり。古人の紀行、多くは「池田宿に泊まりて、天竜川を渡る」と書きたり。 後世、川瀬変じて、東岸となる。

『夫木抄』
 そのかみの里は河瀬となりにけり こゝに池田の同じ名なれど 参議通資

『富士紀行』
 ゆたかなる池田の里の民までも すみよき時代にあふや嬉しき 堯孝法師

『丙辰紀行』
 美濃の青墓、遠江の池田、駿河の手越、いずれも長者遊君ありて、昔は往還の武士(もののふ)、軽薄の少年、鞍馬を門に繋ぎ、千金に笑ひを買うところなれば、かの江口の津にも争(いかで)かおとり侍らん。 矢島大臣の召すされし湯谷も、この池田の宿の娘にて侍ること、世に隠れ無し。今はこの宿、天竜の河の東の端に形ばかり残りて、纔(わずか)なる小民ども、渡りを守りて居侍りける。
 大天竜、小天竜とて、二つの河ありけるが、新田左中将の、尊氏と戦い負けて登られける時、浮橋の桁のなかりけるを、飛び越えられけるも、こゝの事なり。江都が軽捷のありけるにや。浜松のそばなる細流を、小天竜の事なりと今ぞいうめる。
                     羅山
 池田駅長本倡家 (池田の駅長、本(もと)娼家、)
 処子嬋娟天下誇 (処子の嬋娟(せんけん)天下に誇る。)
 腰似楚王宮裏柳 (腰は楚王宮裏の柳に似て、)
 面如巫女廟前花 (面は巫女廟前の花の如し。)
 古今不尽洪河水 (古今尽きず洪河の水、)
 淵瀬相移両岸沙 (淵瀬相移る両岸の沙。)
 治乱興亡非我事 (治乱の興亡、我が事にあらず、)
 征鞍暫憩且嘗茶 (征鞍暫く憩うて、且(しばら)く茶を嘗む。)

★『丙辰紀行』「池田」
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1882661/162

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 平重衡卿、西海の合戦に打ち負け、囚われとなりて鎌倉へ下り給ふ時、池田の宿にて泊まり給ふ。熊野侍従、出でて、宗盛卿に寵せられしを思い懐かしみて、琴弾き、歌諷ひて、労を慰めける。梶原平三、傍らにありて、眼をむき、苦みを見せけるは、こよのう悪き風俗なるべし。

 銀闕玉楼帯晩霞 (銀闕玉楼、晩霞を帯び、)
 惜春舞袖独堪嗟 (春を惜しむ舞袖(ぶゆう)独り嗟くに堪へたり。)
 何謀為得新恩寵 (いづくんぞ謀らん。新恩寵を得んが為に、)
 無奈東方及落花 (東方落花に及ぶをいかんともするなし。)
                             箕山

「重衡海道下」にいわく、
「浜名の橋を渡り給へば、松の梢に風冴えて、入江に騒ぐ波の音、さらでも旅は物憂きに、心を尽くす夕間暮れ、池田の宿にも着き給ひぬ 。
 かの宿の長者、熊野が女・侍従が許に、その夜は三位、宿せられけり。侍従、三位の中将殿を見奉りて、「日比伝(つて)にだに思し召し寄り給わぬ人の、今日はかゝる所へ入らせ給ふ事の不思議さよ」とて、一首の歌を奉る。
  旅の空にふの小屋のいぶせさに 故郷いかに恋しかるらん  熊野侍従
返し
  故郷は恋しくもなし旅の空 都も終の棲家ならねば     三位中将
やゝありて、中将、梶原を召して、「さてもただ今の歌の主はいかなる者ぞ。艶(やさ)しくも仕りたるものかな」と宣えば、景時、畏って申しけるは、「君は未だ知ろし召され候はずや。あれこそ八島の大臣殿(注:屋島大臣こと平宗盛)の、未だ当国の守にて渡らせ給ひし時、召され参らせて御最愛候ひしに、老母、故郷にて痛わりあれば、都より御暇を申し上げしかども給はらざりければ、比は弥生の始めなりけん、
  いかにせん都の春も惜しけれど なれし吾妻の花や散るらん
という名歌仕り、暇を賜はりて罷り下り候ひし海道一の美人」とぞ申しける。都を出でて日数経れば、弥生も半ば過ぎて、春も既に暮れなんとす。遠山の花は、残んの雪かと見えて、浦々島々霞み渡り、来し方行く末の事共を思ひ続け給ふにも 、「こはいかなる宿業のうたてさよ」と宣ひて、尽きせぬものは涙なり。

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平家物語 - 巻第十・海道下 『浜名の橋を渡り給へば…』 (原文・現代語訳)
・「当(三河)国」は「当(遠江)国」の誤り
http://www.manabu-oshieru.com/daigakujuken/kobun/heike/10/0602.html

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