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『吾妻鏡』と『鎌倉殿の13人』(第28回)の違い

建久9年(1198年)
12月27日 源頼朝、相模川(馬入川)の橋供養からの帰路、落馬。
建久10年/正治元年(1199年)
1月11日  源頼朝、臨終出家。
1月13日  源頼朝、死去。享年52。
1月26日  朝廷、源頼家を第2代鎌倉殿とする宣旨(『百錬抄』では25日)
2月  6日  宣旨が鎌倉に届き、源頼家、吉書始(政務開始)。
2月26日  中原親能が上洛して「三左衛門事件」を処理。
4月12日  源頼家の訴訟の親裁停止(13人の合議制)。
4月20日  源頼家、「近習5人衆」に特権を与える。
4月27日 「正治」に改元。
6月25日 中原親能、鎌倉に戻る。
6月30日 三幡(源頼朝と北条政子の次死亡。享年14。
      三幡の乳母父・中原親能は出家し、京都へ。
7月16日 安達景盛、室重広の審議で三河国へ。
7月20日 源頼家、安達景盛の妾を奪って近習・小笠原長経宅に囲う。
8月18日 安達景盛、室重広に逃げられ、三河国から戻る。
8月19日 源頼家、安達景盛を誅殺しようとするが北条政子に諌められる。
10月25日  結城朝光、御所の侍所で「忠臣二君に仕えず」と言う。
10月27日  阿波局、結城朝光に身の危険を知らせる。
       結城朝光、親友・三浦義村に相談する。
10月28日  三浦義村、梶原景時の66人の連署状を作成する。
11月10日  和田義盛、連署状を源頼家に見せるよう大江広元に詰め寄る。
11月12日  源頼家、梶原景時に弁明を求める。
11月13日  梶原景時、一宮館(神奈川県高座郡寒川町)に退く。
12月  9日  梶原景時、鎌倉へ戻る。
12月18日  梶原景時、鎌倉を追放される。
正治2年(1200年)
1月20日  梶原景時、上洛の途中、駿河国で自害。(梶原景時の変)

『吾妻鏡』と『鎌倉殿の13人』の違い


▲13人の合議制

「13人の合議制」というが、中原親能は京都に居て、鎌倉には居なかった。つまり、13人の勢揃いはなかった。
三幡が危篤だと聞き、中原親能は6月25日に鎌倉に来たが、三幡が亡くなると、出家して京都へ戻った。こうして「13人の合議制」は「12人の合議制」となった。

▲安達景盛の妾

『吾妻鏡』では妾とするが、『鎌倉殿の13人』では妻とする。
源頼家は、安達景盛が妾を溺愛して三河国へ行くのを渋ったからか、正室が不憫に思ったからか、その妾に一目ぼれしたからか、奪った上に安達景盛を誅殺しようとするが、北条政子に諌められた。
「三左衛門事件」にせよ、源頼家が御家人を軽んじる暗君に見える。

◎室平四郎重広
 ○本拠地
  ・西尾市室町説
  ・豊橋市牟呂町説
 ○三河国の盗賊で、安達景盛に追われて三河国から相模国へ逃亡し、
  盗賊集団「婆羅門組」の頭・白波雲平となった(式亭三馬の創作?)。
■式亭三馬『流転数回 阿古義物語』
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1209655/188

▲梶原景時の弾劾

『吾妻鏡』では、阿波局(『鎌倉殿の13人』の実衣)が結城朝光に身の危険を知らせているが、『鎌倉殿の13人』では、三浦義村の指示で阿波局に接近した結城朝光が阿波局に悩みを打ち明け、それを盗み聞きした梶原景時の密偵・善児が梶原景時に報告したと変えた。

▲梶原景時の変

『鎌倉殿の13人』では、一幡を人質にして上洛し、無事に上京できたら一幡を返そうと、比企屋敷に侵入したが、一幡が泣いたので見つかったとした。『吾妻鏡』では、午前2時、こっそりと屋敷を抜け出しての上洛の途中、駿河国で見つかったとする。こうして「13人の合議制」は「11人の合議制」となった。



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