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Reco旅 -新居③中之郷-

「中之郷(なかのごう)」とは、「浜名郡の郡衙所在地」という意味である。浜名郡の郡衙は、湖北(浜名湖北部)の中之郷にあったが、
・湖北は特別区(浜名県→伊勢神宮領)である。
・窯業の発達で東海道が湖北から湖南に移った。
・湖北の中之郷にあった郡衙が津波で破壊された。
ので、湖南に移り、新「中之郷」とという地名が生まれ、旧「中之郷」は、「紛らわしい」として、「三ヶ日(みっかび)」と地名を変えた。「三ヶ日」は、昨日から集荷作業が始まったブランドみかん「三ヶ日みかん」の産地である。(今年は表年だから期待できそう。)
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 ただ、浜名郡衙が中之郷のどこにあったかは、分かっていない。
 「ない」ということは、①湖北の浜名郡衙のように湖岸にあったので、津波で消失した(ただし、湖北の浜名郡衙の位置は分かっている)、もしくは、②発掘調査をせずに建造物を建てている、ということだろうか。

 私は、東海道本線「城前踏切」(字名は「城前」ではなく「城之前」)の西側の城山にあったと考えている。現在は自動車学校になっているが、掘れば中之郷城の遺構が出てきて、さらに深く掘れば浜名郡衙の遺構が出てくると思う。もちろん、自動車学校は掘れないので、自動車学校の北と南を掘った。北を「森元遺跡」、南を「城ノ前遺跡」という。

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「森元遺跡」は奈良時代~室町時代の貝塚、「城ノ前遺跡」は貝塚と堀である。どちらも住居跡は出てこなかった。住居(浜名郡衙や中之郷城)は自動車学校がある場所にあったのであろう。

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 中之郷城は攻められ、清源坂(せいげんざか)では、壮絶な戦い「清源坂の戦い」がくりひろげられた。

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 中之郷城の城主は観念し、桜の木に愛馬を繋ぎ、その桜の木の下で自害した。(清源院の境内にあるその桜の木は「駒止めの桜」と呼ばれている。)
 句碑がある。

  年歴ぬる 花に花咲く法の庭 (東蛾)

※東蛾:新居関所番頭・五味4代高稠(ごみたかしげ)の俳号。

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「清源坂」の名の由来は「短蛇山清源院」である。清源院の山門(総欅造りの四脚門)は五味家が寄進したものである。
 清源院の山号の由来の「短蛇様(短蛇大権現)」は水神(雌雄2匹の龍)だといい、裏山(現・自動車学校)に「楠御前太郎社」(通称「短蛇宮(たんじゃのみや)」)として祀られていたが、式内・大神神社(現・二宮神社)に移され、山頂の太郎社に殿ヶ谷の社宮司社、役出の白山神社と共に祀られている。蛇は金運をアップさせるとして、競艇へ行く前に祈願する。

 現在は清源院本堂の甕の中におられる。(式内・大神神社から運んだ若者たちは皆、熱病にかかって死んだという。)嵐の夜に田畑を荒らすので、四世峯山宗雪禅師が甕に封じたという。(なお、今のご住職は、就任したばかりで、こういう話は詳しくないようである。というのも、清源院のお寺のご住職は、代々世襲制ではなく、曹洞宗大本山總持寺から派遣されてくるから(清源院は總持寺の孫寺)である。今のご住職は、派遣されたばかりの30代の若い方で、短蛇さまについては、式内・大神神社(現・二宮神社)の宮司さんの方が詳しい。)

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 清源院は、関所番頭・五味家の菩提寺で、境内には五味家墓所がある。

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 浜名湖の周辺では、「鯖弘法」「鯖大師」の話をよく聞く。
 清源院は、真言宗ではなく、曹洞宗であるので、「鯖弘法/鯖大師」ではなく、「鯖地蔵」(上の写真の右端)である。(露出を間違えた;)

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■鯖弘法/鯖大師:一般的には、「旅の僧(行基)が馬(駒)に塩鯖を積んだ魚屋に出会い、鯖を1匹乞うが、拒否された。そこで呪歌
  あふ坂や八坂の中で鯖ひとつ 行基にくれで駒ぞ腹病む
を唱えると、馬が腹痛で苦しみ始めた。魚屋が謝って鯖を与え、僧が
  あふ坂や八坂の中で鯖ひとつ 行基にくれて駒ぞ腹止む
と唱えると、馬は元気になった」という話(「くれで」(くれないので)と「くれて」(くれたので)、「やむ」(「病む」と「止む」)の使い分けが面白い)であるが、浜名湖周辺の鯖弘法/鯖大師は、「旅の僧(弘法大師)が道に落ちて死んで腐っていた鯖を拾って海に逃がすと、生き返って泳ぎ始めた」という話で、里人に「ものを大切にせよ」と教えたという。

※関根綾子「鯖大師伝説の変容」
https://ko-sho.org/download/K_031/SFNRJ_K_031-03.pdf

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