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連合国家「倭国」と物部王国「日本国」

「日本人として、日本建国の経緯を知らないのは恥ずかしい」
と言うと、
「そんなの記紀(『古事記』『日本書紀』の総称)に書いてある」
「それより、国名を『ひのもと』『にほん』『にっぽん』『ジャパン』のどれか1つに定めることが先決」
と言われる。そうかも知れないが・・・。

 中国の歴史書『旧唐書』では、倭国と日本国を区別して、次のようにあります。

※『旧唐書』(列伝第149上)「東夷」倭国・日本国
【原文】日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。或曰、倭國自惡其名不雅、改為日本。或云、日本舊小國、併倭國之地。
【書き下し文】日本国は、倭国の別種なり。其の国の日辺に在るを以て、故に日本(ひのもと)を以て名と為す。或は曰く、倭国、自ら其の名の雅(みやび)やかならざるを悪(にく)みて、改め、日本と為す。或は云ふ。日本は旧(かつて)小国にして、倭国の地を併せると。
【現代語訳】日本国と倭国は別々の国である。日本国は、倭国の東方(日が昇る方角)にあるので、「日本(ひのもと)」を国号とした。
 あるいは、「倭」という文字がいい意味ではないので嫌い、改めて、「日本」と称したと言う。
 あるいは、「日本」は小国であったが、倭国と併合したという。


 中国人は、倭国と日本国の違いが分からなかったようで、
本説①日本国は倭国の東の国で「日本(日の昇る方角の国)」と名乗った。
別説②倭国が「倭」という字を嫌って「日本国」と改名した。
別説③日本国は小国で、倭国と吸収合併した。
の3説を載せています。

本説①日本国は倭国の東にある別の国
別説②倭国と日本国は同じ国
別説③日本国は小国で、大国の倭国に吸収されて1つになった。
さて、どれが史実?

※『唐書』(とうじょ):唐の正史。改定されたため、945年に完成した『唐書』を『旧唐書』(くとうじょ)、1060年に改定された『唐書』を『新唐書』(しんとうじょ)と便宜上呼んでる。(断り無く『唐書』と言えば、『新唐書』を指す。)

 中国人は、後に倭国=日本国だとし、『新唐書』では「倭国伝」が無くなって「日本伝」のみとなり、「日本國者倭國之別種也」が削除されました。

※『新唐書』(列伝第145)「東夷」日本
【原文】
・日夲、古倭奴也。
・後稍習夏音、惡倭名、更號日夲。
・使者自言「國近日所出、以爲名」。
 或云「日夲乃小國、爲倭所并、故冒其號」。
 使者不以情、故疑焉。又、妄夸其國都方數千里、南、西盡海、東、北限大山、其外即毛人云。
【書き下し文】
・日本国は、古(いにしへ)の倭の奴国なり。
・後に夏音を習ひ、「倭」の名を悪(にく)み日本と更(あらた)め号す。
・使者、自ら言ふ。「国、日の出づる所に近し。以て名と為す」と。
或云ふ。「日本は乃ち小国。倭の并(あは)す所となる。故に其の号を冒(おか)せり」と。使者は情を以てせず、故(かれ)焉(これ)を疑ふ。又、妄(みだ)りに夸(ほこ)りて其の國都は方數千里にして、南、西は海に盡(つ)き、東、北は大山に限(かぎ)られ、其の外は即ち毛人なりと云ふ。
【現代語訳】
・日本国とは、昔(漢から金印「漢委奴国王」印を授かった)倭の奴国(「委奴(いと。糸)国」?)のことである。
・後に漢字を勉強し、「倭」という字は悪い意味の字であることを知り、国号を「日本」に改めた。
・遣唐使が「日が昇る場所に近いので「日本」を国号とした」と言っている。あるいは、「日本は小国であり、倭国が併合して、その国号を奪って使っている」とも言っている。この遣唐使は、事実を語らない者なので、これらの話は疑わしい。また、この遣唐使は、誇大妄想というか、(大きく見せようとして)「日本の首都は、数千里四方で、南と西は海に接しており、東と北には大きな山があって、その向こう側は毛人国である」と言っている。

 学者は、この『旧唐書』の記述を「小国だった日本国=天武天皇が、『壬申の乱』で大国の倭国=弘文天皇を倒して、「日本(天武政権)」が成立した」ということだと解釈しています。言い換えれば、天武天皇が『壬申の乱』で勝って、国名を「倭」から「日本」に変え、君主の称号を「大王」から「天皇」に変え、「法(大宝律令)や国史(『日本書紀』)を整備して、一人前の国にします。もう東夷(東の野蛮人の国)とは言わせません」と宣言したということであるとしています。

 学者がなぜこんな苦しい説明をするかと言うと、「日本」という国号は天武天皇が考えたもので、それ以前に「日本」は存在しなかったというのが学説だからです。消された物部王国「日本」(ニギハヤヒ王朝)を無視しているのです。

 このように学者は、「日本国は小国で、大国の倭国に吸収されて1つになった。倭国が「日本」という国号を使った」の逆、「日本国は小国だが、大国の倭国に吸収して1つになった」を史実だとしているのです。

 私が九州王朝を認めない学者なら、「別説②倭国が「倭」という字を嫌って「日本国」と改名した」を採用しますけどね。そして、ヤマトタケルを『日本書紀』では「日本武尊」、『古事記』では「倭建命」と書くことから、国名は「やまと」であり、天武天皇の御代に、漢字表記が「倭」から「日本」への移行したと解釈します。ただ、(理解できないのは、「倭」も、「日本」も、「やまと」と読めないことです。「邪馬台」は「やまと」と読めますけどね。)

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