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未発表記事「井伊谷崩れ」

「井伊谷崩れ」とは、「井伊谷城の落城に伴う井伊一族の討死や離散」をいう。「井伊谷崩れ」の回数と時期は不明であるが、この記事では、
(1)今川氏真家臣・朝比奈泰朝による「井伊谷崩れ」
(2)徳川家康の遠江侵攻時の「井伊谷崩れ」
(3)武田信玄本隊の別働隊・秋山虎繁による「井伊谷崩れ」
(4)武田信玄本隊の別働隊・山県昌景による「井伊谷崩れ」  
を取り上げる。

(1)朝比奈泰朝による「井伊谷崩れ」


 朝比奈泰朝による「井伊谷崩れ」は、23代宗主・井伊直親(井伊直政の父)の命日とも関係している。
 静岡県浜松市の歴史を徹底的に調査・研究した『濱松御在城記』には、永禄5年(1562年)3月、駿河国から軍隊が送られて、井伊谷城が落城したとする(井伊直親、永禄5年(1562年)3月2日死亡説)。

■『濱松御在城記』
永禄五年三月は井伊谷、同年四月は引間、同年七月は嵩山、此三城へ駿河より人数を差向、被攻候。井伊谷、嵩山は落去。引間の城にては、寄手の大将・新野左馬助、討死。

(永禄5年(1562年)3月には井伊谷城(城主・井伊直親?)、4月には引間城(城主・飯尾連龍)、7月には市場城(城主・奥山朝利)、この3城に駿河国から軍勢を送って攻められた。井伊谷城と市場城は落とした。引間城攻めでは、今川軍の大将・新野親矩が討死した。)

 『濱松御在城記』は信用できる研究書だとして、「井伊直親3月2日死亡説」の根拠1つになっている。しかし、『濱松御在城記』には、井伊谷城が落城したと書いてあるだけで、城主の名や、城主の生死は不明である。
 通説では、井伊直親は、井伊家家老・小野道好(政次)の「井伊直親は徳川家康と内通している」という讒言により今川氏真に疑われ、まずは新野親矩が陳述に駿府へ行った。続いて井伊直親が陳謝のために駿府へ行く予定であったが、「新野親矩と井伊直親の2人に責められたら論破される」と思った今川氏真は、掛川城主・朝比奈泰朝に「何とかせよ」と命じた。朝比奈泰朝は、井伊谷に使者を送り、「今川氏真は、多くの訴訟を抱えいて忙しいので、まずは私が掛川城で聞く」と井伊直親に告げた。井伊直親は、掛川城に向かい、原川に用意された宿に泊まった。その夜、井伊直親は、朝比奈軍に包囲されて討たれ(井伊直親、永禄5年(1562年)12月14日死亡説)、朝比奈軍は、その足で井伊谷に向かい、井伊谷城を攻めると、井伊谷城主・中野直由は奥山城(愛知県豊橋市嵩山町の市場城?)に逃げ、その奥山城も攻められて奥山朝利が討死し、中野直由は、さらに三河国加茂(愛知県豊橋市賀茂町)に逃げたとする。
 今川氏真は、新野親矩と中野直由の忠義を試すため、小林砦(静岡県浜松市浜北区小林)を築いて引間城を攻めさせた。大天竜(江戸時代以降は小天竜と呼ばれた馬込川)に架かる引間橋で戦い、新野親矩も中野直由も3度目の橋合戦で討死した。(新野親矩も中野直由も背中に矢が当たったという。21代宗主・井伊直宗も田原城攻めで背中を射られて落命している。今川軍は味方を射るのが得意なようだ。)

※中野直由:中野家は18代宗主・井伊忠直の子・直房が中野(井伊氏居館の南東部)に住んで興した最も新しい(最も宗家の血が濃い)井伊家の分家である。井伊直盛は遺言で、中野直由を井伊谷城主とした。井伊直親は、女癖が悪くて井伊谷へは入れてもらえず、祝田で暮らしていた。

 2017年NHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』では「今川軍が都田川まで来たので、井伊直親は、「井伊谷崩れ」を防ぐために、駿府今川館に陳謝に行くことにし、道中で討たれた」としたが、これは有り得ない。都田川から井伊谷城へは30分、井伊谷城から駿府今川館まではジャスト100km。往復には数日かかる。井伊直親が帰った日には、井伊谷は焼け野原であろう。今川軍の大将に「攻撃を数日待って」と使者を送ったところで、その場で斬り捨てられて終わりであろう。

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