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治承4年(1180年)8月23日~8月29日の源頼朝の動向

『吾妻鏡』

8月23日 夜になって「石橋山の戦い」開始。
8月24日 早朝、暴風雨の中、椙山堀口(吉浜川堀)に着陣。
      梶原景時に見つかるも、永実の案内で箱根山へ逃げる。
      24~26日の3日間、箱根の永実宅に滞在。
8月27日  ?
8月28日    土肥郷の真名鶴崎(真鶴岬)から船で安房国へ逃げる。
8月29日    安房国猟島(竜島)に上陸する。

◆『鎌倉殿の13人』

8月23日 夜になって「石橋山の戦い」開始。
8月24日 早朝、岩窟に隠れる。
      梶原景時に見つかるも表沙汰にされず。
      箱根へ向うも落ち武者狩りが多くて岩窟に戻る。
8月25~27日  ?(食事をとれず、戦闘意欲を無くす。)
8月28日    岩浦からの出航叶わず土肥郷真名鶴崎から安房国へ。
8月29日    安房国猟島に上陸する。

・1ヶ所に留まらず、椙山(神奈川県足柄下郡湯河原町吉浜)を中心に、山中、岩屋(真鶴)、お堂の縁の下(吉浜)等(の伝承地)を転々として隠れていたと思われる。

・箱根権現の話や梶原景時の話は、箱根権現や梶原景時の顕彰のために創作して挿入した話とされ、箱根には行っていないと思われる。史実は「梶原景時の家臣が源頼朝一行に出会ったが逃げられた」か?
 とはいえ、後の梶原景時の出世や二所詣の定例化を考えると、実話なのかもしれないとも思う。九条兼実の日記『玉葉』「治承4年(1180年)9月11日」条に「伝聞」としながらも、「然之間、忽ち頼朝之逆乱出来、仍合戦之間、逐篭頼朝等於筥根山了」(こうしているうちに源頼朝が挙兵して合戦となったが、源頼朝は駆逐され、箱根山に篭った)とある。

※二所詣:鎌倉幕府の将軍が、毎年正月恒例の行事として、「源頼朝の鎌倉入り」に貢献した伊豆山権現(伊豆山神社 )、箱根権現(箱根神社)、三嶋社(三嶋大社)に参詣すること。

■梶原景時との出会い


(1)山で出会う。

■『吾妻鏡』
景親、追武衛之跡、搜求嶺渓。于時有梶原平三景時者。慥雖知御在所、存有情之慮、此山稱無人跡、曳景親之手登傍峯。
(大庭景親は、頼朝様を追って峰や谷を探し求めた。ここに梶原景時がいた。確かに源頼朝の所在を知っていたが、情があって、「この山には人の痕跡は無い」と言って、大庭景親の手を引いて横の峰に登って行った。)

(2)倒木の洞に隠れていて出会う。

■『源平盛衰記』「兵衛佐殿隠臥木附梶原助佐殿事」
 兵衛佐殿は、土肥杉山を守て、掻分々々落給ふ。伴には、土肥次郎実平、北条四郎時政、岡崎四郎義真、土肥弥太郎遠平、懐島平権守景能、藤九郎盛長已下の輩、相随て落給ひけるを、大場、曽我案内者として、三千余騎にて追懸たり。
 杉山は分内狭き所にて、忍び隠るべき様なし。田代冠者信綱は大将を延さんとて、高木の上に昇て、引取々々散々に射る。敵三千余騎、田代に被防て左右なく山にも入らざりけり。
 其隙に佐殿は、「鵐の岩屋」と云谷におり下り、見廻せば、七、八人が程入ぬべき大なる伏木あり。暫く此に休て息をぞ続給ひける。去程に御方の者共多く跡目に付いて来り集る。爰に佐殿仰けるは、「敵は大勢也。而も大場、曽我案内者にて、山蹈して相尋ぬべし。されば大勢悪かりなん。散々に忍び給へ。世にあらば互に尋ねたづぬべし」と宣へば、兵者「我等、既に日本国を敵に受たり。遁べき身に非ず。兎にも角にも一所にこそ」と各返事申しければ、兵衛佐、重て宣ひけるは、「軍の習、或は敵を落し、或は敵に落さるゝ。是定れる事也。一度軍を敵に被敗、永く命を失ふ道やはあるべき。爰に集り居て、敵にあなづられて命を失はん事、愚なるに非や。昔范蠡不侚会稽之恥、畢復勾践之讎、曹沫不死三敗之辱、已報魯国之羞、此を遁れ出て、大事を成立てたらんこそ兵法には叶ふべけれ。いかにも多勢にては不可遁得、各心に任て落べし。『頼朝、山を出て、安房上総へ越ぬ』と聞えば、其時急尋来給ふべし」と、言を尽て宣へば、道理遁れ難して、各思々にぞ落行ける。
 北条四郎は、甲斐国へぞ越にける。兵衛佐殿に相従て山に籠ける者は、土肥次郎実平、同男遠平、新開次郎忠氏、土屋三郎宗遠、岡崎四郎義実、藤九郎盛長也。兵衛佐は、軍兵ちり/゛\に成て、臥木の天河に隠れ入にけり。其日の装束には、赤地の錦の直垂に、赤威の鎧著て、伏木の端近く居給へり。すそ金物には、銀の蝶の丸をきびしく打たりければ、殊にかゞやきてぞ見えける。
 其中に藤九郎盛長申けるは、「盛長承り伝へ侍り。『昔、後朱雀院御宇天喜年中に、御先祖伊予守殿、貞任宗任を被責けるに、官兵多く討れて落給ひけるに、僅に七騎にて山に籠給ひけり。王事靡塩終に逆賊を亡して四海を靡し給ひけり』と、今日の御有様、昔に相違なし。吉例也」と申ければ、兵衛佐憑もしく覚して、八幡大菩薩をぞ心の内には念じ給ひけり。田代冠者は、矢種既につきぬ。「佐殿。今は遥に落延給ひぬらん」と思ひければ、木より飛下て、跡目に付て落給ひ、同臥木の天河にぞ入りにける。田代、佐殿に頬を合せて、「いかゞすべき」と歎処に、大場、曽我、俣野、梶原三千余騎、山蹈して、木の本萱の中に乱散て尋けれ共不見けり。大場、伏木の上に登て、弓杖をつき蹈またがりて、「正く佐殿は此までおはしつる物を、伏木不審なり。空に入りて捜せ者共」と下知しけるに、大場がいとこに平三景時進出て、弓脇にはさみ、太刀に手かけて、伏木の中につと入、佐殿と景時と真向に居向て、互に眼を見合たり。佐殿は今は限り、景時が手に懸ぬと覚しければ、急ぎ案じて降をや乞、自害をやすると覚しけるが、いかゞ景時程の者に降をば乞べき、自害と思ひ定めて腰の刀に手をかけ給ふ。景時哀に見奉りて、「暫く相待給へ。助け奉るべし。軍に勝給ひたらば、公、忘れ給な。若又敵の手に懸給ひたらば、草の陰までも『景時が弓矢の冥加』と守給へ」と申も果ねば、蜘蛛の糸さと天河に引たりけり。景時不思議と思ひければ、彼蜘蛛の糸を、弓の筈甲の鉢に引懸て、暇申て伏木の口へ出にけり。佐殿、然るべき事と覚しながら、掌をあはせ、景時が後貌を三度拝して、「我世にあらば其恩を忘れじ。縦ひ亡たり共、七代までは守らん」とぞ心中に誓はれける。後に思へば、景時が為には忝とぞ覚えたる。
 平三、伏木の口に立塞りて、弓杖を突申しけるは、「此内には蟻螻蛄もなし。蝙蝠は多く騒飛侍り。土肥の真鶴を見遣ば、武者七、八騎見えたり。一定佐殿にこそと覚ゆ。あれを追へ」とぞ下知しける。大場、見遣て、「彼も佐殿にてはおはせず。いかにも伏木の底不審也。斧鉞を取寄て、切破て見べし」と云ひけるが、「其も時刻を移すべし。よし/\景親入て捜てみん」とて、伏木より飛下て、弓脇ばさみ太刀に手かけて、天河の中に入んとしけるを、平三、立塞り、太刀に手懸て云けるは、「やゝ大場殿、当時平家の御代也。源氏、軍に負て落ちぬ。誰人か源氏の大将軍の頸取て、平家の見参に入て、世にあらんと思はぬ者有べきか。御辺に劣て此伏木を捜すべきか。景時に不審をなしてさがさん」と宣はば、「我々二心ある者とや。兼て人の隠たらんに、かく甲の鉢弓のはずに、蜘蛛の糸懸べしや。此を猶も不審して思けがされんには、生ても面目なし。誰人にもさがさすまじ。此上に推てさがす人あらば、思切なん景時は」と云ければ、大場もさすが不入けるが、猶も心にかゝりて、弓を差入て打振つゝ、からり/\と二三度さぐり廻ければ、佐殿の鎧の袖にぞ当ける。深く八幡大菩薩を祈念し給ける験にや、伏木の中より山鳩二羽飛出て、はた/\と羽打して出たりけるにこそ、佐殿内におはせんには、「鳩有まじとは思けれ共、いかにも不審也ければ、斧鉞を取寄て切て見ん」と云けるに、さしも晴たる大空、俄に黒雲引覆雷おびたゞしく鳴廻て、大雨頻に降ければ、「雨やみて後破て見べし」とて、杉山を引返けるが、大なる石の有けるを、七、八人して倒寄、伏木の口に立塞てぞ帰にける。
■呉座勇一「梶原景時助命伝説の真偽」
 『源平盛衰記』は頼朝と景時の邂逅を次のように記す。
 源頼朝は土肥郷の椙山(すぎやま)へと逃れ、「鴟(とび)の岩屋」という谷に降りたところ、7、8人が入れそうな大きな伏木を見つけた。頼朝一行は伏木の中に隠れて一休みする。この時に頼朝に付き従っていたのは、土肥実平・遠平父子、土屋宗遠、岡崎義実、安達盛長らだった。一方、大庭景親らは頼朝捜索のため山狩りを行っていた。景親は「あの伏木が怪しい」と言い、梶原景時が弓を脇に挟み太刀に手をかけて伏木の中に入る。そこで頼朝と景時は正面から目と目を合わせる形になった。頼朝はもはやこれまでと思い、自害するために腰の刀に手をかけるが、景時はこれを制して「お待ちくだされ。助けてさしあげる」と述べる。外に出た景時は「蝙蝠が騒ぎ飛んでいるだけです」と景親に報告した。景親は納得せず、自ら伏木の中に入ろうとするが、景時は「それがしを疑うおつもりか」と景親の前に立ちはだかる。『源平盛衰記』はなおも疑う景親が、落雷など種々の奇瑞(きずい)の発生によって捜索を断念する様子を描くが、その顛末は省略する。
 ともかく、景時が頼朝の命を救ったことを同書は強調している。頼朝は景時の後ろ姿に三度礼をして「生涯、この恩は忘れない」と心に誓うのである。この逸話はあまりに劇的で、史実とはみなしがたい。山本幸司氏は、「後年における頼朝の過剰なまでの景時の寵用」を説明するために「椙山の危機における景時による頼朝の助命」という伝説が生まれた、と推測している(『頼朝の精神史』講談社選書メチエ、1998年)。従うべき見解であろう。現実に頼朝の逃走に大きく貢献したのは、現地の地理に精通した土肥実平だと思われる。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/92048

■24~26日の3日間を箱根で過ごす。


 鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』では、源頼朝は、土地勘のある土肥実平と共に土肥郷椙山堀口(神奈川県足柄下郡湯河原町吉浜川堀)に逃げると、関東総鎮守箱根権現(現在の箱根神社・九頭龍神社)の第19世別当・行実(『箱根山別当累世記』では、行実を源頼朝の従兄弟)の使いの永実(行実の弟)が来て、箱根権現(神奈川県足柄下郡箱根町元箱根)に案内したという。京都にいた行実が箱根権現の別当に就任する際、源為義は「東国の家人の召集権」を、源義朝は「駿河、伊豆の家人の召集権」を行実に与えていた縁で、行実は、源頼朝が伊豆国流罪の間、祈祷師として仕え(源頼朝も箱根権現、走湯権現(現在の伊豆山神社)に深く帰依して読経を怠らず、亡父・源義朝や、源氏一門を弔いながら、日々を送っていた)、 石橋山での敗北を聞いて、弟の永実を頼朝のもとへ行かせたのだという。永実が持参した駄餉(だしょう。野外での食糧。弁当)に救われた源頼朝は、永実の案内で箱根権現に入った。

  良尋(第18世別当)┬行実(第19世別当)
           ├永実
           └良暹(智藏房)

ところが、山木兼隆の祈祷師・智藏房良暹の源頼朝襲撃が露見し、「良暹を恐れることはないが、大庭景親に連絡されると面倒」と進言された源頼朝は、土肥実平、永実らとともに箱根道を通って土肥郷へ下ったという。(源頼朝は、鎌倉入り直後に早川荘を寄進した。)
https://hakonejinja.or.jp/



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