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紫式部一行の越前下向ルート

 近江の湖にて、三尾が崎といふ所に、網引くを見て、
(20)三尾の海に 網引く民の 手間もなく
     立ち居につけて 都恋しも
 又、磯の浜に、鶴の声々鳴くを、
(21)磯隠れ 同じ心に 田鶴ぞ鳴く
     なに思ひ出づる 人や誰れそも
  夕立ちしぬべしとて、空の曇りてひらめくに、
(22)かき曇り 夕立つ波の 荒ければ
     浮きたる舟ぞ しづ心なき
 塩津山といふ道のいとしげきを、賤の男のあやしきさまどもして、「なほからき道なりや」と言ふを聞きて、
(23)知りぬらむ 行き来にならす 塩津山
     世にふる道は からきものぞと
 に、おいつ島といふ洲崎に向かひて、わらはべの浦といふ入り海のをかしきを口ずさびに、
(24)おいつ島 島守る神や いさむらむ
     波も騒がぬ わらはべの浦
 暦に「初雪降る」と書きたる日、目に近き日野岳といふ山の雪、いと深う見やらるれば、
(25)ここにかく 日野の杉むら 埋む雪
      小塩の松に 今日やまがへる
返し、
(26)小塩山 松の上葉に 今日やさは
     峯の薄雪 花と見ゆらむ
 降り積みて、いとむつかしき雪をかき捨てて、山のやうにしなしたるに、人びと登りて、「なほ、これ出でて見たまへ」と言へば、
(27)ふるさとに 帰る山路の それならば
     心やゆくと 雪も見てまし
 年かへりて、「唐人見に行かむ」と言ひける人の、「春はとく来るものと、いかで知らせたてまつらむ」と言ひたるに、
(28)春なれど 白根の深雪 いや積もり
     解くべきほどの いつとなきかな

『紫式部集』

●3泊4日の旅?
・1日目:京都~勝野津(滋賀県高島市)泊
・2日目:勝野津~塩津(滋賀県長浜市)泊
・3日目:塩津~敦賀の松原駅館(福井県敦賀市)泊
・4日目:敦賀の松原駅館~国府(国衙)

https://www.yomiuri.co.jp/local/fukui/news/20240204-OYTNT50019/

1.京都~逢坂の関~打出浜(牛車で移動)


 打出浜(滋賀県大津市打出浜)は、「石山詣」のために「逢坂の関」を超えた平安貴族が舟で石山寺へ向かう際の出航の地でもあります。

2.打出浜~三尾が崎~塩津浜(舟で移動)


「紫式部越前下向1000年」(1996年)に再現された下向の旅

近江の湖にて、三尾が崎といふ所に、網引くを見て、
(20)三尾の海に 網引く民の 手間もなく
     立ち居につけて 都恋しも
 又、磯の浜に、鶴の声々鳴くを、
(21)磯隠れ 同じ心に 田鶴ぞ鳴く
     なに思ひ出づる 人や誰れそも

  「夕立ちしぬべし」とて、空の曇りてひらめくに、
(22)かき曇り 夕立つ波の 荒ければ
     浮きたる舟ぞ しづ心なき

『紫式部集』

 近江の湖「琵琶湖」の「三尾が崎」(滋賀県高島市)という所に上陸し、1泊したという。漁師が網を引いているのを見て、
「三尾の海で漁民がせわしなく網を引いて働いている
 その立ち居を見るにつけても都が恋しいことよ」
 また、磯の浜で、鶴が声々に鳴くのを聞いて、
「磯の隠れた所で、私と同じ気持ちで鶴が鳴いている。
 何を思い出し、誰を思って鳴いているのだろうか」

近江の海にて三尾が崎といふ
所に綱引くを見て
みおの海に
  綱引く民の
 てまもなく
立ちゐにつけて
 都恋しも

 この歌は、「源氏物語」の作者紫式部が、この地を通った時に詠んだものである。平安時代の長徳2年(996)、越前の国司となった父 藤原為時に従って紫式部が京を発ったのは夏のことであった。一行は逢坂山を越え、大津から船路にて湖西を通り越前に向った。途中、高島の三尾崎(今の明神崎)の浜べで、漁をする人々の綱引く見慣れぬ光景に、都の生活を恋しく思い出して詠んだのが右の歌である。
 その夜は勝野津に泊り、翌日塩津から陸路越前に下った。
 紫式部にとって、この長旅は生涯でただ一度の体験となった。彼女は越前の国府(武生市)に一年ばかり滞在したが、翌年の秋、単身京に帰った。
 ここに紫式部の若き日を偲び、当白髭神社の境内に歌碑を建て永く後代に顕彰するものである。なお碑文は「陽明文庫本」に依り記した。
 昭和63年4月吉日 建立
  高島町観光協会

白髭神社の歌碑
https://gururinkansai.com/shirahige-murasakikahi.html

※白鬚神社(滋賀県高島市鵜川):古くから「延命長寿 白鬚の神」として広く崇敬され、縁結び、子授け、福徳開運、攘災招福、商売繁盛。交通安全など人の世の総ての「導き&道開きの神」として信仰されてきた。

「夕立ちが降りそうだ」と言って、空が曇って稲妻が煌めくので、
「空がかき曇り、夕立ちのために波が荒くなったので、
 浮いている舟の上では落ち着いていられない」
(舟に乗っていては、どこへも逃げられない。波が荒く、転覆するかもしれないし、雨水が舟に溜まって沈没するかもしれないと、気が気でない。)

3.塩津浜~越前国府(輿で移動)


「古代塩津浜港」(滋賀県立安土考古博物館)

(表)知りぬらむ
 ゆききにならす塩津山
よにふる道は
 からきものぞと
   紫式部
(裏)紫式部集に収められている和歌である。
輿に乗って塩津街道の深坂越えをしていた紫式部は、自分の輿を担いでいる人夫が峠の坂の険しさに愚痴をこぼすのを聞いて、人生の世知辛さと塩津山の塩辛いを掛け、「世の中というのは塩津山の道のように厳しいものなのです」と詠んだ。

常夜燈公園の歌碑
https://gururinkansai.com/shiotsujyoyatokahi.html

 塩津湊に上陸し、塩津神社(式内・鹽津神社)で旅の安全を祈願しました。塩池があって製塩が行われ、塩土老翁神を祀ったとのことです。

 塩津山といふ道のいとしげきを、賤の男のあやしきさまどもして、「なほからき道なりや」と言ふを聞きて、
(23)知りぬらむ 行き来にならす 塩津山
     世にふる道は からきものぞと

『紫式部集』
「紫式部越前下向1000年」(1996年)に再現された下向の旅

長徳2年(996)頃、紫式部が父藤原為時とともにこの峠を越えたときの詞書と歌
 塩津山といふ道のいとしげきを、賎の男のあやしきさまどもして、「なおからき道なりや」といふを聞きて、
  知りぬらむゆききにならす塩津山
           世にふる道はからきものぞと
                         『紫式部集』

(大意)塩津山という道が草木が大変茂っているので輿をひいて荷物を運ぶ人足が誰もみすぼらしい姿をして「やはりここは難儀な道だなあ」と言うのを聞いて、
お前達もわかったでしょう。いつも往き来して歩き馴れている塩津山も、世渡りの道としてはつらいものだということが。

「紫式部歌碑」現地案内
https://gururinkansai.com/fukasakamurasaki.html

4.越前国府

暦に「初雪降る」と書きたる日、目に近き日野岳といふ山の雪、いと深う見やらるれば、
(25)ここにかく 日野の杉むら 埋む雪
      小塩の松に 今日やまがへる
返し、
(26)小塩山 松の上葉に 今日やさは
     峯の薄雪 花と見ゆらむ

 降り積みて、いとむつかしき雪をかき捨てて、山のやうにしなしたるに、人びと登りて、「なほ、これ出でて見たまへ」と言へば、
(27)ふるさとに 帰る山路の それならば
     心やゆくと 雪も見てまし

 年かへりて、「唐人見に行かむ」と言ひける人の、「春はとく来るものと、いかで知らせたてまつらむ」と言ひたるに、
(28)春なれど 白根の深雪 いや積もり
     解くべきほどの いつとなきかな

『紫式部集』

 暦に「初雪降る」と書いた日(福井県の初雪は例年では12月3日)、目近に見える日野岳(現・日野山。「越前富士」と称される標高795mの山)という山の雪が、たいそう深く積もっているように眺められるので(その場にいた侍女に向かい?)、
「ここ越前国府の日野山の杉林を埋める雪は
 小塩山(京都市西京区にある標高642mの山)の松に今日は見間違える」
(その場にいた侍女の?)返歌。
「小塩山の松葉に、今日はおっしゃるように(雪が薄く積もり)
 その小塩山の薄雪は花のように見えるでしょう」

 雪が降り積もって、たいへんやっかいな雪をかき捨てて、山のようにした所に、人々が登って、「やはり、ここへ出て来て御覧なさい」と言うので、
「故郷(京都)に帰る山路(鹿蒜(かひる)山)の雪であれば
 気も晴れるかと、出て行って雪を見ましょうが」


※式内・鹿蒜神社(旧・越前国南条郡鹿蒜村。現・福井県南条郡南越前町今庄):越前国府へ向かう途中で参拝したとされる。

 年が明けて(長徳3年(997)になって)、「唐人(敦賀の松原客館の宋人?)を見に行こう」と言っていた人(後の夫・藤原宣孝?)が、「『春は早く来るもの』と、何とかしてお知らせ申そう」と言ったので、
「春になりましたが、白山の深雪はますます降り積もって
 いつ雪解けとなるかは分かりません」

※「春になって雪が解けたら越前国に会いに行く。今年は雪解けが例年よりも早く、予定より早く会えそうだ」と言うのをうざいと思ったのか「白山の雪はまだ深い」と返信した。

 赴任の時期について、初雪の話が続くので、「晩秋」とお考えの方がおられますが、夕立に遭っているので、「盛夏」でしょう。

 なお、

 に、おいつ島といふ洲崎に向かひて、わらはべの浦といふ入り海のをかしきを口ずさびに、
(24)おいつ島 島守る神や いさむらむ
     波も騒がぬ わらはべの浦

『紫式部集』

は、下向時ではなく、上洛時の話であるので、省略しました。写した人が「この話はここだろう」と思い込み、差し込んだのでしょうか?

※紫式部は、危険な思い(夕立との遭遇)や船酔いに懲りたのか、上洛には陸路「北匡街道→東山道」を使っています。(舟で東岸を移動したとする説もあり。)

■越前市武生公会堂記念館「越前市へ通じる道」(2024)

■『光る君へ』放送記念「紫式部越前下向再現」(2024年)


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