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ヤマトタケルを殺したのは誰だ?

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 ヤマトタケル(『日本書紀』では「日本武」、『古事記』では「倭建」)の死については、「ヤマトタケルは、伊服岐能山(いふきのやま。現在の伊吹山)経由で都へ帰ろうとして、尾張氏の娘に草薙剣を『私だと思って祀れ』と残して伊吹山へ向かうと、伊吹山の神にダメージを与えられた」といいます。そこで伊勢神宮経由で都へ帰ることに変えるも、伊勢国内で力尽きて亡くなったといいます。「双子は同じ死に方をする」とも言います。双子の兄がマムシに噛まれて死んでいますから、ヤマトタケルも伊吹山でマムシに噛まれて亡くなったのを「伊吹山の神に殺された」としているのかもしれませんね。

伊吹山でヤマトタケルを襲ったのは、
①伝承では伊吹山の神(伊富岐(伊夫岐)神社のご祭神・多多美彦命)
②伊吹山を領する人間(「草薙剣」の本来の持ち主である伊福部氏)
③ヤマトタケル(ニギハヤヒ一族)を恐れる人間(ヤマト王権の景行天皇)
など諸説あります。 

①ヤマトタケルを襲ったのは、人間でしょうけど、ヤマトタケルは天皇の御子ですから、それが誰であっても重大問題です。襲ったのは神であれば、「仕方ない」ですまされます。
 古代では、「シシ」と言った場合、鹿を指す場合と、猪を指す場合とあって混乱しますが、足柄山の足柄明神は白鹿で、伊吹山の伊富岐神(多多美彦命、夷服岳神、気吹男神)は白猪でした。伊富岐神は、ヤマトタケルが、「白猪か。伊富岐神ではなく、伊富岐神の眷属だろう」と無視したのを怒って、氷雨でヤマトタケルを襲ったとされています。(他説では、毒霧を吐いて、ヤマトタケルに殺された足柄明神の仇討ちをしたのだとも。)
 伊富岐神(多多美彦命)は、気が荒い「荒ぶる神」のようで、夷服 ( いふき ) 岳(現在の伊吹山)と浅井岳(現在の金糞岳)の背比べの時、浅井神(多多美彦命の姪の浅井比売命)がズルしたので、首を刎ねたそうです。首は琵琶湖に落ち、竹生島になったとのことです。(伊福氏と息長氏は仲が悪いみたいですね。なお、都久夫須麻神社のご祭神としては市杵島比売命が有名ですが、浅井比売命も祀られていますよ。)

②伊服岐能山(いふきのやま。現在の伊吹(いぶき)山)とは、「伊福部(いふくべ)氏の山」の意で、「伊福」は「鋳吹き(いぶき)」であり、伊福部は、鋳造を中心とする金属加工のスペシャリストの集団でした。伊冨利部ともいい、尾張氏と共に尾張国へ来た人々で、尾張氏とは同族(ニギハヤヒの子孫)です。
 伊福部氏がヤマトタケルを襲って自分たちの草薙剣を取り戻し、同族の尾張氏に預けたというのが史実で、尾張氏が「ヤマトタケルに頼まれて草薙剣を祀っている」という話は、天皇に奪われないための創作でしょう。
 伊吹山の東半分は伊福部氏領、西半分は息長氏領で、両者が争っていたので、ヤマトタケルが調停者として(戦意を示さず)丸腰で行ったが、両者の争いとなり、ヤマトタケルは、その争いに巻き込まれて重症を負い、遂には亡くなったとする説もあります。

③東征に向かう直前、ヤマトタケルは、伊勢神宮で「景行天皇は私を殺したいようだ」と倭姫(ヤマトヒメ)に愚痴っています。古代日本には、日本(にほん)を「日本(ひのもと)」と呼ぶ大阪平野のニギハヤヒ王権と、「大和(やまと)」と呼ぶ奈良盆地のヤマト王権があり、ヤマトタケル(ニギハヤヒ王権)は、景行天皇(ヤマト王権)の養子で、ニギハヤヒ王権からの人質(ニギハヤヒ王権の王族の生き残り)だったようです。(『古事記』では、景行天皇の子は、記録に残っている子が21人、残らなかった子が59人で、合計80人だったとあります。全国各地の豪族が養子(人質)を差し出したので、80人に膨れ上がってしまったのでしょう。)
 なお、草薙剣は、尾張氏など、ニギハヤヒ一族でないと扱えません。ヤマト王権の天皇では扱えません。たとえば、天武天皇は、草薙剣の祟りで病気になり、天智天皇が熱田神宮から奪った草薙剣を熱田神宮に返しています。ヤマト王権の天皇は、草薙剣を御所に置くと祟られるので、置けません。ヤマトタケルがヤマト王権の天皇の子であれば、草薙剣は扱えません。

さて、どの説が史実?
ヤマトタケルを殺したのは誰だ?

※最近の考古学では「王朝交替説」よりも「王権交替説」が主流で、「ヤマト王朝」と言わすに「ヤマト王権」「ヤマト政権」と言いますね。また、考古学で「ヤマト王権」と言った場合、奈良盆地だけではなく、大阪平野も含みます。


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