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浜名湖周辺の熱田神社と八剣大明神

浜名湖の周辺には、私が知る限りでは、熱田神社が3社、八剣大明神が1社ある。

──熱田神社が3社、八剣大明神が1社というのは、多いのか、少ないのか?
──そもそも「熱田神社」「八剣宮」とはどのような性格の神社なのか?

1.草薙剣に祟られた崇神天皇


 八咫鏡、八尺瓊勾玉と共に「三種の神器」の一つ天叢雲剣(後の草薙剣)は、御所(宮中)に置かれていたが、崇神天皇の時代に天叢雲剣の形代(コピー)が作られ、その形代を御所に残して、本物は伊勢神宮に移された。
 景行天皇の御代(景行天皇40年)の「ヤマトタケルの東征」の時、伊勢神宮の斎宮(巫女の長)・ヤマトヒメは、ヤマトタケルに天叢雲剣を渡し、ヤマトタケルは妃・ミヤズヒメ(尾張国の尾張氏の娘)に「この剣を私だと思って祀るように」と言って渡したので、草薙剣は熱田神宮の御神体として熱田に置かれた。

 なお、崇神天皇が作らせた天叢雲剣の形代は、「壇ノ浦の戦い」(源平合戦)の時、安徳天皇と共に関門海峡に沈んだ。

2.草薙剣に祟られた天武天皇


 天智天皇(626-672)の御代(668-672)の668年、新羅の僧・道行(どうぎょう)が草薙剣を熱田神宮から盗みだした。すぐに捕らえられ、草薙剣は石上神宮の摂社・出雲建雄神社で保管された。(『平家物語』には、天武天皇が草薙剣を内裏に移したとある。)なお、道行は処刑されないばかりか、寺を与えられて住職におさまっているので、草薙剣盗難事件の黒幕は天智天皇だと考えられる。

 天智天皇の弟・天武天皇(?-686)の御代(673-686)の朱鳥元年(686年)6月、天武天皇が病に倒れると、原因が占いによって「宮中に神剣を置いたままにし、熱田に戻さない為の神剣の祟り」と判明したので、熱田神宮へ戻された。(草薙神社の社伝では、草薙剣は、景行天皇が草薙神社に奉納し、ずっと草薙神社で保管していたが、天武天皇の命令で熱田神宮に渡したとある。) 
 しかし、天武天皇は回復せず、朱鳥元年9月9日に崩御した。

3.熱田神宮の大改修と八剣宮の創建


 天武天皇は草薙剣を熱田神宮に返したにも関わらず、草薙剣の祟りが解けずに崩御した。これは、天武天皇が熱田神宮に返したのは形代(コピー)であり、本物は伊勢神宮に移され、地下宮殿「竜宮城」に保管されているという噂であるが、史実は不明である。(竜宮城からこっそりと龍田大社に移されたともいう。)

 天武天皇は、再び草薙剣が盗まれないうように、熱田神宮を大改修し、常設の警備兵を置いて、特別な人以外は熱田神宮に参拝できないようにした。特別ではない人は、東西の鳥居の遥拝所から祈願した。(現在の「六末社」は、東遥拝所の名残である。)
 これは不評であったので、和銅元年(708年)に草薙剣の形代(コピー)を新造し、コピー社(別宮)・八剣宮を建て、参拝できるようにした。(形代(コピー)ではなく、スサノオが八俣大蛇から草薙剣を取り出す時に使った天十握剣(「蛇之麁正(おろちのあらまさ)」)だという噂があるが、蛇之麁正は、「布都斯魂大神」と名を変えて、石上神宮に祀られているはずである。)

・熱田神宮:熱田大神(草薙剣)=楊貴妃
・八剣宮:八剣大神(蛇之麁正)=玄宗皇帝

 熱田神宮から熱田大神のご分霊をいただいて、熱田神社を建てようと思っても、「特別な理由(熱田神宮や熱田神宮の御祭神との深い縁)」がないと許可されないらしい。だが、八剣宮から熱田大神のご分霊をいただいて、八剣社を建てることは容易なようである。この意味では、「浜名湖の周辺には、熱田神社が3社、八剣大明神が1社ある。多いか、少ないか?」の答えは「「熱田神社」「八剣社」の性格を考えたら、熱田神社は多いが、八剣社は少ない」となる。
 熱田神社を建てられる「特別な理由」としては、熱田神社の由緒書を読むと、「熱田神宮に務めていたが、退職して地元に戻り、熱田神社を建てて神主になった」というケースが多いように思われる。

<尾張国の「熱田神社」「八剣宮」>

・熱田神宮 1社
・熱田神社 4社
・熱田社   19社
・八剣宮  1社
・八剣神社 7社
・八剣社   27社

4.浜名湖の周辺の熱田神社と八剣大明神


(1)熱田神社(大崎)


 静岡県浜松市北区三ヶ日町大崎に熱田神社があった。
 境内には安倍晴明が滞在して修行したという清明屋敷があり、竹やぶの中に清明井戸があったが、老朽化のため取り壊され、現在は大崎公民館となっている。(熱田神社は、近くの都筑神社に合祀された。)

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(2)熱田神社(知波(大知波/落葉))


 創建年月日や由緒は不明である。22枚の棟札が保存されている。最も古い棟札には、「天正6年11月15日 奉■■(造再?)興熱田太神宮1宇」とある。社記には、
・文明16年(1484年)足利義政が再興
・天文8年(1539年)今川義元が本社造営
・天正6年(1578年)徳川家康代官・本多作左衛門尉重次造営
とある。
 現在は大神山八幡宮の境内にある。

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(3)熱田神社 一宮神社(吉美)


 「熱田神社」に「一宮神社」が合祀されて「熱田神社 一宮神社」という。鎮座地は「吉美」で、これは「ヤマトタケルの東征」の副将軍・吉備武彦の名による。将軍・ヤマトタケルの名を使わずに、副将軍の名を使うのは不敬だと思うが、「ヤマトタケルは船で移動したのでここには来ていない」ともいう。
 「市場」という地名もある(市場と川尻を合わせて吉美)ので、古代では湖西焼(須恵器)の売買で賑わっていたことであろう。(湖西焼の窯は最盛期には1000基あったという。また、湖西土は耀変天目茶碗の再現に向いていると評判である。)
http://kosai-city.net/kosaiyaki/

<熱田神社(旧・上宮大明神)・一宮神社のご祭神>
・日本武尊(小碓尊、日本童男)
・宮簀姫命(日本武尊妃)
・吉備武彦命(ヤマトタケル東征の副将軍)
・武甕槌命(軍神)
・木花咲耶姫(夫婦和合の神)←一宮神社の御祭神
・市杵島姫命(市場の神)←一宮神社の御祭神
・角避比古神←地震で倒壊した近くの式内大社・角避比古神社の御祭神

 享徳3年(1454年)に中村勝藤が、熱田大明神を勧請したという。中村勝藤については詳細不明であるが、名古屋市中村区の人で、尾張国守護・斯波氏に代官に任命されて派遣され、信仰する熱田神宮の神と氏社・源太輔宮(現在の上知我麻神社)の神を祀り、当時は「上宮大明神」と呼ばれたという。
 熱田神宮の神は「熱田大神」と「五神様」と呼ばれる「天照大神、素盞嗚尊、日本武尊、宮簀媛命、建稲種命」の5柱であるが、この熱田神社のメンバーは「日本武尊、宮簀姫命、吉備武彦命、武甕槌命」と変則的である。(吉備武彦命と武甕槌命は、どこの神社からの勧請のだろう?)
 鎮座地は、「吉美」という地名から「ヤマトタケル東征時の逗留地」と考えられ、「熱田神社」として、明治から大正にかけて、ヤマトタケル関連地として、「白鳥の杜」「神井戸」「御手洗」が整備された。
・白鳥の杜:浮島(深田の中の森)。大正以前の呼称は「五反田の森」。
・神井戸:熱田神社で使う井戸水。ヤマトタケルも飲んだとした。
・御手洗:参拝前に手を洗う場所。ヤマトタケルがうがいしたとした。

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(4)八剣大明神(気賀)

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