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富士の巻狩り(1/6)「巻狩りの準備」

■「軍事訓練を兼ねた巻狩り」【監修】時代考証・木下 竜馬
 建久4年(1193)3月、後白河法皇の喪が明けると、源頼朝は下野国那須野、信濃国三原野、駿河国富士野の3か所で大規模な巻狩りを行い、自身の権威を示しました。巻狩りは、シカやイノシシなどが生息する狩場を大勢の勢子や追出犬によって取り囲み、徐々に獲物を巻き込んで射取る狩猟のことで、実戦と同様に馬上から騎射が行われたため、武士にとっては軍事訓練の性格もありました。また、武士の狩猟は農作物を荒らす害獣を駆除し、農業を保護する領主の義務という側面もありました。
 富士野での巻狩りの準備を行ったのは駿河国の守護を務める北条時政で、頼朝は5月15日に狩場に到着します。しかしこの後、歴史に大きく刻まれる大事件が起こり、頼朝らを震撼させることになります。
https://www.nhk.or.jp/kamakura13/story/23.html
■『保暦間記』
同四年に、頼朝、今は天下憚る所なかりけるまゝ、所々の狩りをして遊ばれけり。信濃の御原、下野の那須の狩りなんど有りけり。其の後、富士の奥野の狩りあり。爰に曽我十郎、同五郎と云ふ者あり。伊豆の国の住人也。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879818/377

1.信濃国三原野の巻狩り


建久4年(1193年)
3月21日  源頼朝、鎌倉を出発。
3月25日  武蔵国入間野(埼玉県入間市)で「追鳥狩り」。
月日不詳 浅間山麓(信濃国三原野)で「巻狩り」。
月日不詳 赤城山麓(群馬県前橋市)で「巻狩り」。
4月  2日  下野国那須野で「巻狩り」。
4月28日  源頼朝、鎌倉に帰還。

※信濃国三原野:浅間山麓。『曾我物語』(岩波書店)「三原野」の注に「大日本地名辞書では、信濃国三原ということから、「長倉、枯井、塩野など朝間の裙野ならん」と考えている。しかし、真名本には、「見三原狩倉共、三箇日有御逗留、浅間麓離山、小松手向、那城松原、年行三子沢、甲賀三郎諏方自維縵国被出神出山奥、置部松原、借屋戸、縵持坂、見処々珍重」とある。それによると、この三原野は、群馬県吾妻郡嬬恋村に属するか」とあり、『信濃宝鑑』「明泉寺」(長野県佐久市香坂)の項に、「建久の年、右大将頼朝が当国浅間山に狩し、心願ありて本寺再興のことを思ひ立たされければ、速かに三重の宝塔一基造立す」とある。
 以上、三原野は浅間山麓で、信濃国の長野県須坂市説、当時は信濃国で、後に上野国になった西吾妻の群馬県吾妻郡嬬恋村三原説、群馬県吾妻郡長野原町説がある。
 なお、信濃国三原野の巻狩りについては『曾我物語』に詳しい。

・参考文献:平林富三『源頼朝、信濃国三原の狩考』

2.下野国那須野の巻狩り

■『吾妻鑑』「建久4年(1193年)3月9日」条
建久四年(1193)三月小九日丙子。那須太郎光助、拝領下野國北條内一村。是來月、於那須野、可有御野遊之間、爲其經營被宛行之云々。

(建久4年(1193年)3月9日。那須光助(光資。千葉胤明の娘の夫)が、下野国北条郡(上那須地方)の内の1村を与えられた。これは、来月、那須野で野遊び(巻狩り)をするので、その運営費として宛がわれたのだという。)

※北条郡:「北条郡は那須郡の別称ではない。豊田(注:那須北条郡稗田郷。現・矢板市豊田)、佐良土(注:盞堵(さらと)村。現・湯津上村佐良土)を含んで本郡半ば以北の地区であろう。北条郡は公設の郡ではなく、郡郷の制が乱れてからの私建のものの如くである。当時、上那須、下那須に分れていたから、上那須地方を北条と言った通称であろう。名称は鎌倉時代に起ったものと見てよい」(『那須郡誌』)。

■『吾妻鑑』「建久4年(1193年)3月15日」条
建久四年三月小十五日壬午。近日、依可有那須野御狩、所被搆藍澤之屋形等、以宿次人夫、壞渡下野國云々。

(建久4年(1193年)3月15日。近日中に、那須野で巻狩りをしたいので、駿河国鮎沢の屋形を、宿場の人足達を使って、解体して下野国へ運ばせたという。)
■『吾妻鑑』「建久4年(1193年)3月21日」条
建久四年三月小廿一日戊子。舊院御一廻之程者、諸國被禁狩獵。日數已馳過訖、仍將軍家、爲覽下野國那須野、信濃國三原等狩倉、今日進發給。自去比所被召聚馴狩獵之輩也。其中、令達弓馬、又、無御隔心之族、被撰二十二人、各令帶弓箭。「其外、縱雖及万騎、不帶弓箭、可爲踏馬衆」之由被定云々。

(建久4年(1193年)3月21日。後白河法皇の一周忌までは、諸国で殺生の狩猟を禁止していた。その日(3月13日)が既に過ぎたので、将軍家(源頼朝)は、下野国那須野、信濃国三原(長野県須坂市)の狩倉(狩場)での巻狩りを見るために、今日(鎌倉を)発った。以前から狩猟に慣れている者共を呼び集めた。そのうち、弓馬の達人で、隔心の無い22人を選び、それぞれに弓を持たせた。「その他の者共は、たとえ1万人集っても、弓は持たせず、踏馬衆(馬の足踏みで獲物を追い立てる役)とする」と決めたという。)

※建久4年(1193年)3月25日、武蔵国入間野(埼玉県入間市)で、鳥を林から追い出して射る「追鳥狩り」を行った。藤沢清親が雉を5羽、鶬(まなづる)を25羽を射て名をあげた。馬上弓では、鳥を射るのが究極の技だという。

■『吾妻鑑』「建久4年(1193年)4月2日」条
建久四年四月小二日戊戌。覽那須野。去夜半更以後、入勢子。小山左衛門尉朝政、宇都宮左衛門尉朝綱、八田右衛門尉知家、各依召献千人勢子云々。那須太郎光助、奉駄餉云々。

(建久4年(1193年)4月2日。源頼朝は、那須野(での巻狩り)を見た。昨夜の真夜中に、追いたて役の「勢子」を入れた。小山朝政と宇都宮朝綱、八田知家が、それぞれ1000人の勢子を提供した。那須光助が弁当を献上したという。)
■『吾妻鑑』「建久4年(1193年)4月23日」条
建久四年四月小廿三日己未。那須野等御狩、漸事終之間、「藍澤屋形、又、可運還駿河國」之由云々。

(建久4年(1193年)4月23日。那須野等での巻狩りが、ようやく終わったので、「鮎沢に屋形を、また駿河国に運ぶように」と命令したという。

※源頼朝は、新田義重の新田舘を経由して、建久4年(1193年)4月28日、鎌倉に戻った。

3.駿河国富士野の巻狩り


「富士の巻狩り」は、『吾妻鑑』「建久4年(1193年)5月8日」条に「富士野藍澤の夏狩りを覧んがために駿河国に赴かしめ給ふ」、同「6月7日」条に「駿河国より鎌倉に還向したまふ」とあり、5月8日から6月7日の約1ヶ月という長期に渡って行われたことが分かる。

建久4年(1193年)
5月  2日 駿河国守護・北条時政、準備のために駿河国に下向。
5月  8日 源頼朝、富士野に向う。
5月15日 源頼朝、富士野の旅館に入る。「六斎日」につき宴会。
5月16日 源頼家、鹿を射止めて「矢口祭」。
5月18日 仁田忠常、大猪(実は山ノ神)を仕留めて寿命を縮める。
5月22日 源頼家が鹿を射止めたことを鎌倉の北条政子に報告。
5月23日 「六斎日」につき狩猟禁止。
5月27日 工藤景光、山ノ神(神鹿)を射て発病する。
5月28日 曾我兄弟の仇討ち。
5月29日 源頼朝、弟・曽我五郎時致を自ら尋問する。
5月30日 曽我兄弟の仇討ちが鎌倉に伝わる。
6月  1日 曽我祐成の愛人・虎(大磯の遊女)を呼ぶも、無罪釈放。
6月  3日 曽我祐成の夜討を恐れて逃亡した久慈氏の領地を没収。
6月  5日 曽我兄弟の仇討ちで、御家人の動きが騒がしくなる。
6月  7日 源頼朝、鎌倉に帰還する。
6月18日 曽我祐成の愛人・虎、箱根神社の行実坊で法事を執行する。

■『吾妻鑑』「建久4年(1193年)5月2日」条
建久四年五月大二日丁夘。北條殿下向駿河國給。是爲覽狩倉、可令赴彼國給。御旅舘已下事、仰伊豆駿河兩州御家人等、「狩野介相共可令沙汰給」之由、含御旨、先以首途給云々。

(建久4年(1193年)5月2日。北条時政が駿河国へ下向した。これは、巻狩りで使う狩倉(狩場)を見るために、(源頼朝に命じられて、)駿河国へ赴いたのである。旅館(の建設)などの事を、伊豆国と駿河国の2ヶ国の御家人達に命じ、「狩野宗茂と共に準備するよう」にとの命令を言い含められて、先に出発したのだという。)
■『吾妻鑑』「建久4年(1193年)5月8日」条
建久四年五月大八日癸酉。將軍家、爲覽富士野藍澤夏狩、令赴駿河國給。

(建久4年(1193年)5月8日。将軍家(源頼朝)は、富士野の鮎沢での夏の巻狩りを見るために駿河国へ出かけた。)
■『吾妻鑑』「建久4年(1193年)5月15日」条
建久四年五月大十五日庚辰。藍澤御狩、事終、入御富士野御旅舘。當南面立五間假屋。御家人同連檐。狩野介者參會路次。北條殿者、豫被參候其所、令献駄餉給。今日者、依爲齋日無御狩、終日御酒宴也。手越、黄瀬河已下近邊遊女令群參、列候御前。而召里見冠者義成、「向後、可爲遊君別當。只今、即彼等群集、頗物忩也。相率于傍、撰置藝能者、可随召」之由被仰付云々。其後遊女事等、至訴論等、義成一向執申之云々。

(建久4年(1193年)5月15日。鮎沢(静岡県御殿場市新橋鮎沢)での巻狩りの準備が出来たので、(源頼朝は、)富士野の旅館に入った。その旅館は、南向きで5間の仮設の建物である。御家人達も同じように軒を並べた。狩野宗茂とは、(富士野へ行く)途中で参会した。北条時政は、予めそこへ行っていて、弁当を献上した。今日は、仏教の戒(殺生禁止)を守る日の「六斎日」(毎月8、14、15、23、29、30日)なので、狩りはしないで、一日中、宴会であった。手越宿(静岡県静岡市)、黄瀬川宿(静岡県沼津市)など、近辺の遊女達が集ってきて、源頼朝の前へ並んだ。源頼朝は、里見義成を呼び、「今後は、遊女達の別当(取り仕切る主任)になれ。今、遊女達が集って、頗る物忩(騒がしいこと)である。脇に連れて行って、芸に通じている者を選び出して連れてこい」と命じたという。これ以後、遊女の事については、訴訟までも、里見義成が専門で取り継ぐことになったという。)


 信濃国三原野(浅間山麓)、赤城山麓、那須野(那須岳山麓)、駿河国富士野(富士山麓)の巻狩り後に神社が建てられていることから考えると、これらの巻狩りは、「遊び」「軍事訓練」という要素以外に、「浅間山、赤城山、那須岳、富士山の神々に、前年に征夷大将軍となったことを報告し、鎌倉幕府の繁栄を祈願した」という要素もあったことであろう。

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