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私論「南無阿弥家康」 ー徳川家康の「日課念仏」ー


 浄土宗には「日課念仏」という「念仏行」があります。この行は、たとえば「1日6万回」と定めて「南無阿弥陀仏」と6万回唱え、阿弥陀仏へのひたむきな帰依を表明することによって、極楽浄土に往生することを乞い願うという行です。(回数は数珠を使って数えるのですが、6万回だと時間がかかるので、最近は録音した物を流す方もおられるとか。徳川家康の「日課念仏」も暇になった(?)駿府在城時代の話だとか。)

南無阿弥陀仏の理解に関しては、法然門下において相違がある。たとえば、真宗では「南無=発願回向」を阿弥陀仏が衆生に行を回向したと理解し、阿弥陀仏の召喚によって、衆生は本願行である念仏を称えることになると理解する。しかし、浄土宗において南無阿弥陀仏は、「南無」とは凡夫が往生を志す「願」であり、その心によって「阿弥陀仏」と称えることが往生のための「行」となり、南無阿弥陀仏の六字は願行具足したものであり、往生のための実践行である。それゆえ一向に六字の名号を称えることで往生が叶うとする。さらに『一枚起請文』や『授手印』においても説かれる、三心、四修、五念などについては、往生を願って南無阿弥陀仏と称えるうちに含まれることとなる。極楽往生のためには南無阿弥陀仏と称え、疑いなく往生すると思う以外に道はなく、それゆえ南無阿弥陀仏と称える口称念仏の相続が肝要となる。

浄土衆大辞典

日課念仏十二徳
第一 蓮華標名徳   第二 不妄無常徳   第三 任運廃悪徳
第四 恒有懺悔徳   第五 滅罪生善徳   第六 光明摂取徳
第七 仏神愛護徳   第八 見仏聞法徳   第九 恩所済度徳
第十 宗意徹底徳   第11 万行円修徳   第12 正念往生徳

 徳川家康が「日課念仏」(「東照宮日課名号」とも)を始めた理由は「戦死せし人々の為にものし給ひし也」(懺悔(恒有懺悔徳)、贖罪(滅罪生善徳)というより供養(正念往生徳))と増上寺に伝わり、開始時期については、
説①「桶狭間の戦い」直後、大樹寺に逃げ込んだ時に登誉上人に言われて
説②征夷大将軍就任時、天海和尚に言われて
の2説があります。

※登誉上人は五重相伝を授け、「毎日6万遍唱えよ」と言って「白本尊」を渡したのみで、文字化には触れていない。現存する「日課念仏」は、ほとんどが駿府城在城時代(慶長12年~死ぬまで)の慶長17年(1612年)のものである(征夷大将軍就任は慶長8年(1603年))から、説①は、徳川家康が大樹寺を参詣した慶長17年1月26日の誤伝か?
 徳川家康は、「南無阿弥陀仏」と唱えるだけではなく、文字化していました。(また、「白本尊」「黒本尊」と呼ばれる2体の阿弥陀仏像を自身の念持仏にしていました。)

 私が初めて「徳川家康の日課念仏」を見たのは浜松城か大樹寺か忘れましたが、浜松城の物は細かな文字でびっしりと、大樹寺の物は短冊を拡大した展示物ですが本物は細かな文字でびっしりと「南無阿弥陀仏」と書かれており、最後に「南無阿弥家康」と書かれていました。その時は、「以上、徳川家康が願いました(今日はここまで。また明日)」という意味の署名だろうと軽く考えていましたが、よくよく考えれば、署名なら「徳川家康(花押)」でいいわけですし、そもそも「南無阿弥陀仏」と唱えるだけでいいわけで、文字化する必要はありません。髭題目ではないけれど、もしかして、縁者への私的なプレゼント?(土岐氏なら鷹の絵を描いてプレゼントすることでしょう。)青森県の3点(下斗米(しもとまい)家、鈴木家、山本家に各1点。いずれも国指定重要美術品)は、光龍寺(八戸市)の住職・石川未逢が上京し、東京都在住の松岡操氏所蔵の「日課念仏」を割愛して帰り、これを分割して信者に配与(プレゼント)した物です。大樹寺の物も一部を切り取った物では?(浜松市博物館の物は、大きさ34.7×25.5㎝で、43行×6段表記で、「一部分」ではありません。)

 徳川家康の「日課念仏」って、何年間も毎日書いていたとすると、ものすごい枚数になったと思いますが、現存しているのは何枚でしょうか? 「日課念仏」は個人蔵が多い上に、日本人より中国人に人気なので、正確な数は分かりません。高値で取引されるので偽物も多数出回っているようです。

 ちなみに、『大日本史料』(第12編之24)元和2年4月17日条に掲載されているのは、次の通りです。(なぜか浜松城(展示品リニューアルで浜松市美術館へ)と大樹寺が載っていない。)
・慶長17年4月1日/東京都牛込南山伏町宮田修氏所蔵
・慶長17年5月17日/東京都世田谷区羽根木町松岡操氏所蔵
・(慶長17年?)6月6日/南葵文庫所蔵
・慶長17年7月1日/青森県新荒町下斗米多嘉吉氏所蔵→青森県立郷土館に預託
・慶長17年7月3日/青森県八戸市番町鈴木吉十郎氏所蔵
・(慶長17年?)7月21日/青森県工藤徳兵衛氏所蔵
・慶長17年7月29日/東京都宮田孝次郎氏所蔵
・慶長17年8月19日/東京都川島むめ氏所蔵
・慶長17年8月31日/青森県十八日町山本勝次郎氏所蔵
・東京都西村清氏蔵33枚
 ・1枚目 (慶長17年?)
 ・2枚目 (慶長17年?)
 ・3枚目 (慶長17年?)9月30日
 ・4枚目 (慶長17年?)
 ・5枚目 (慶長17年?)
 ・6枚目 (慶長17年?)10月1日
 ・7枚目 (慶長17年?)
 ・8枚目 (慶長17年?)
 ・9枚目 (慶長17年?)
 ・10枚目 (慶長17年?)10月2日
 ・11枚目 慶長17年10月3日
 ・12枚目 (慶長17年?)
 ・13枚目 (慶長17年?)10月7日
 ・14枚目 (慶長17年?)
 ・15枚目 (慶長17年?)10月7日
 ・16枚目 慶長17年10月5日
 ・17枚目 (慶長17年?)10月8日
 ・18枚目 「七十一翁家康」(慶長17年?)
 ・19枚目 (慶長17年?)10月31日
 ・20枚目 (慶長17年?)10月11日
 ・21枚目 (慶長17年?)
 ・22枚目 慶長17年10月15日
 ・23枚目 慶長17年10月19日
 ・24枚目 (慶長17年?)
 ・25枚目 慶長17年10月31日
 ・26枚目 (慶長17年?)
 ・27枚目 (慶長17年?)
 ・28枚目 (慶長17年?)
 ・29枚目 (慶長17年?)
 ・30枚目 (慶長17年?)
 ・31枚目 (慶長17年?)
 ・32枚目 (慶長17年?)
 ・33枚目 慶長17年10月24日
・(慶長17年?)/愛知県名古屋市浅井又太郎氏所蔵
・(慶長17年?)/東京都渡辺海旭氏所蔵
・(慶長17年?)/東京都松本清之助氏所蔵
・(慶長17年?)/東京都和田幹男氏所蔵


・(慶長17年1月26日?)/大樹寺(愛知県岡崎市)所蔵
・(慶長17年?)/武藤林三郎氏所蔵
・慶長17年6月9日/常楽寺(長野県上田市別所温泉)所蔵(国指定重美)
・慶長17年7月3日/東京都松岡操氏→天聖寺(青森県八戸市十六日町)所蔵
・慶長17年9月10日/個人蔵→浜松市博物館(静岡県浜松市)に預託
・慶長17年10月6日/五島美術館(東京都世田谷区上野毛)所蔵

・慶長16年3月22日、父・徳川広忠に従二位大納言の贈官。
・慶長17年1月7日、吉良で鷹狩をするために駿府城を出る。
     1月14日、吉良着。
     1月20日、岡崎城に入城。
     1月26日、大樹寺と松應寺に参詣して法要。銀50枚をお布施。
     1月27日、名古屋城で石垣や堀の工事の指示。
     1月29日、岡崎着。
     2月2日、岡崎発。
     2月6日、駿府城に帰還。
※大林寺には行かなかった? 大樹寺参詣時には、祖先の廟所を巡視すると、碑石が苔むしていたので、自らの爪で剥がして歩いたという。苔むすって・・・お墓の管理は子孫の役目ではありますが、岡崎城主や将軍・徳川家忠には、「墓守を雇って、墓の管理(掃除)をさせろよ」と言いたい。


 「南無阿弥家康」の意味は、歴史学者でも分からないそうです。(歴史学者よりも、浄土宗のお寺のご住職の方がお詳しいのでは?)
 学者にしたら「南無阿弥家康」は意味不明=徳川家康がそんなこと書くはずがない=偽作ってことですかね。一部は国指定文化財(美術品)になってますが。


★以下の内容は、「南無阿弥家康」の①学説、②『どうする家康』の脚本家の説、③私の説の3本立てになります。

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