出典不明の対談
学者が書いた本に「永禄7年(1564年)4月8日、飯尾連竜は、松平家康と対談した」とあった。
『どうする家康』(第10回)でも、飯尾連竜が松平家康と引間城で対談していた。「清須同盟」締結に際して、松平元康が尾張国清須城へ行ったが、今回の松平家康は遠江国引間城へ。三河国を離れて清須城へ行くことはありえないように思うが、三河国を離れて今川領内の引間城へ乗り込むのは、それ以上にありえない。危険過ぎるだろ。(そもそも飯尾連竜が松平家康と手を結びたいのなら、飯尾連竜が岡崎城へ行くべきだろ。)
『どうする家康』の飯尾連竜は、「今川を離反して松平に従属したい」ではなく、「三河をまとめあげたお手並みに感服いたしました。これからは松平殿と共に歩みとうござる。とはいえ、某も今川と戦をしたいわけではない。今川と松平殿の間をうまく取り持ちたいと考えております。大戦をしても誰も得をしませんでな」と仲裁役を申し出ていたが、田鶴が「飯尾連竜謀反」とでも今川氏真に密告したのか、飯尾連竜は誅殺された。夫を売るってあり?)
──永禄7年(1564年)4月8日の「対談」の出典は何?
本題に戻そう。私が知っているのは、永禄9年8月6日付今川氏真の東漸寺日亮宛「遠江国浜松庄内東漸寺領分田畑屋敷等事」(「東漸寺文書」)である。
「去子年四月八日、飯尾与松平蔵人令対面砌、鷲津之本興寺江蔵人軍勢令乱入」(去る永禄7甲子年(1564年)4月8日、飯尾連竜と松平家康が(三遠国境付近で)対峙した時、鷲津本興寺(静岡県湖西市鷲津)へ松平家康軍が乱入した)とある。「対面」は「互いに向き合うこと」であり、「飯尾軍と松平軍が向き合った、対峙した、対陣した」のである。(上掲の手紙は、この時の乱入で失われた安堵状を再発行するという内容である。)
学者は、この日に、飯尾連竜と松平家康が対談したという。「対面」を「顔を向き合わせて会うこと。対談」と訳したのだろうか。そうであれば、平和裏に行われるはずで、松平家康軍が本興寺(飯尾家菩提寺・東漸寺の本寺)に乱入した理由が分からない。(交渉が決裂した腹いせの乱入なのか?)
そもそも今川氏真が「飯尾連竜と松平家康が対談した時に」と書くだろうか? 学者様のご意見をお聞きしたいものだ。
本興寺は三遠国境という軍事的に重要な場所にあり、土屋氏が鷲津城を築いていた。
また、今川氏真は、少し離れた妙立寺(トヨタ創業家の菩提寺)に替地を与えて境目城に改修したが、徳川家康の遠江国侵攻時、別働隊の酒井隊が落として本陣とし、笠子山に砦を築いて白須賀城(引間城の支城。城代・垣塚右衛門)を、入出に砦を築いて宇津山城(城代は酒井忠次に吉田城を奪われた小原鎮実)を落としている。