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Reco旅 -新居⑤応賀寺-


◯11月3日(木) 薬師如来大祭・ご開帳
午後1時    薬師堂内陣特別拝観・宝物館無料開放
午後2時30分 大般若祈祷会
午後3時30分 もちなげ
午後4時頃まで 模擬店(やきそば 税込み¥300、他)
年に一度のご開帳に併せて、3年ぶりの内陣・宝物館の公開ともちなげがございます。是非ご参拝ください。(通常、宝物館拝観は予約制です。1週間前までにご予約ください。)
http://www.ougaji.jp/events/yakushi/index.html

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 高野山真言宗・鏡光山応賀寺(静岡県湖西市新居町中之郷)には肩書きが多いが、有名なのは、
・あらい薬師(本尊)
・浜名湖七福神「恵比寿尊天」
・遠州八大不動霊場 第7番札所「舵取不動尊」
であろう。

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本尊・薬師如来(右)と「浜名湖七福神」ゑ比須神(左)の御朱印をいただいた。

1.浜名湖七福神


「浜名湖七福神」とは、高野山真言宗の7ヶ寺。
現在は高野山真言宗であるが、聖徳太子や行基ゆかりの寺々で、空海(弘法大師)が開山とは限らない。

※「浜名湖七福神」
・恵比須神:鏡光山 応賀寺  神亀年間(724-729)行基開山
・大黒天 :大乗山 摩訶耶寺 神亀3年 (726)行基開山
・布袋尊 :瑠璃山 大福寺  貞観17年(875)教待開山 
・寿老天 :光岩山 長楽寺  大同年間(806-810)空海開山
・福禄寿 :竜宮山 岩水寺  神亀2年  (725)行基開山
・毘沙門天:遠州信貴山
・弁財天 :甲江山 鴨江寺  大同2年  (807)行基開山

1月に巡拝すると「七難即滅、七福即生極まりなし」(7つの災難から逃れ、7つの幸福を授かる)というから、レンタカーを借りて(サポがあればタクシーで)回りたい。「浜名湖七福神」特製の御朱印帳「浜名湖七福神 宝印帳」(¥1000)もある。(応賀寺には浜名湖七福神事務局が置かれている。)

※「浜名湖七福神」
http://www.hamanako7.net/

2.不動堂「舵取不動尊」

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 堂内の厨子に「遠州八大不動」の不動明王立像「舵取不動尊」が収められている。不動明王は、空海が唐に渡航する際、航海の安全を守った仏だとされ、「舵取り不動」と言われている。
 船の舵だけではなく、人生の舵も取るとされ、人生の岐路に立った時、この不動明王に祈願すれば、良い方向に舵を取ってくれるという。

※「遠州八大不動」
1番  妙見山 不動院 (高野山真言宗)
2番  遍照山 弘法院 (高野山真言宗)
3番  篠谷山 岩松寺 (高野山真言宗)
4番  甲江山 鴨江寺 (高野山真言宗)
5番  観潮山 快真寺 (曹洞宗)
6番  知足山 不動院 (高野山真言宗)
7番  鏡光山 応賀寺 (高野山真言宗)
8番  瑠璃山 大福寺 (高野山真言宗)

3.本堂(薬師堂)


 応賀寺は、元は「大賀寺」といい、吉美庄(静岡県湖西市吉美)にあった。周囲の寺が日蓮宗に改宗したので、移転したという。
 空海が難破しそうになった時、大賀寺の本尊・薬師如来の光背の光に勇気付けられて助かったので、空海は山号を、光る鏡の山で「鏡光山」、喜びに応ずる寺で「応賀寺」と名付けたという。
 知行500余石、8坊を有する巨大寺院であったが、慶長8年(1603年)8月、徳川家康が朱印状を出した時には38石、4坊しかなかったという。

■当山の縁起と沿革

 鏡光山応賀寺は神亀年間(724年〜)聖武天皇の勅願時として、行基菩薩により開基・草創された古刹であります。くだって、弘仁年間(810年〜)弘法大師諸国巡錫の砌り、浜名湖を渡らんとするに行路半ば強風吹き来たり、一舟、波に煽られ闇夜の湖上を漂流、そのとき遠く対岸に一条の光の輝くを認め、これを目標に無事漕ぎ着くことができました。この光こそ当山の本尊、薬師如来の光背であったと古記は伝えております。随喜された大師はこの寺の山号を光る鏡の山、鏡光山と呼び、喜びに応ずる寺すなわち応賀寺と名付け、海上安全と息災安穏を祈願されたと伝えらるる真言宗始祖縁りの霊場でございます。
 往古、当山は知行500余石を受け、京の御室、嵯峨の両御所より叙位、任官の勅許を授かり、色衣の着用を許されておりました。その後、寺領はなお80余石、この頃塔頭は西林坊、尭泉坊、杉本坊、聞持院、慶蔵坊、今蔵坊、山本坊、松之坊と8坊の多きを数えました。慶長8(1603)年に至り徳川家康公より御朱印地38石を拝領致しましたが、星霜重ねると共に漸次頽廃、明治維新の変革に際し現在の応賀寺と杉本坊を残すのみとなり、杉本坊も明治9年敗坊となりました。
 しかし、一山の法脈はやはり絶えず、神亀の開創よりおよそ1300年、大小堂宇に秘仏を祀り、経典、軸物、美術品等、古典文物を守りつつ、近郷善男善女の信を集め、今日に至ったものでございます。

※応賀寺公式サイト
http://www.ougaji.jp/

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本堂(薬師堂)がある場所は、松之坊の跡地だという。

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本尊の薬師如来像は60年に1度の公開の秘仏であったが、現在は年に1度、大祭の日(11月3日=文化の日)に公開される。

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※施工ドキュメント「応賀寺薬師堂」
http://www.tanakashaji.co.jp/document/200904/post-3.html

4.身代わり大師

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「南無大師遍照金剛」と書かれた護符を、自分が患っている患部と同じ場所に貼ると、弘法大師が身代わりになって病気を治してくれるという。

5.行者社

※『静岡の行者さま』
https://note.com/sz2020/n/n618f9fca65a2

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6.宝物館

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 宝物館の拝観は予約制で、1週間前までに予約しないといけないが、11月3日は無料公開(通常は¥300)される。

 館内は撮影可(ただし、フラッシュの使用は禁止)。天井の蛍光管と白熱電球のスポットライトのミックス光なので、ホワイトバランスを調整しないと色が汚い。(今回はオートで撮影。オレンジに傾いている。)

 エアコンが効いていて涼しかった。

(1)源頼朝から妙相が拝領した団扇と扇子

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松に鳥(鳩?)
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応賀寺の公式サイトでは、この団扇が、なぜか軍配になってる。
軍配であれば、表は太陽、裏は月の図案のはず。
http://www.ougaji.jp/bunkazai/index.html

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「観桜図」

(2)妙相が寄進した「毘沙門天立像」

 上の写真の慶派の毘沙門天立像の胎内から願文が発見された。
 願文といえば、神社に奉納する絵馬にしろ、七夕の短冊にしろ、数行であるが、妙相の願文は4m以上ある。内容には、平安時代末期から鎌倉時代初期に流行したという「太子信仰」(聖徳太子信仰)の影響がみられる。

■毘沙門天像の胎内文書

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・大きさ:縦9cm、横455cm
・内容
 ・毘沙門天功徳経
 ・毘沙門天像印仏
 ・毘沙門天種子及び毘沙門天真言(五遍)
 ・毘沙門天像印仏、毘沙門天種子(五字)
 ・毘沙門天印仏、毘沙門天種子(百字)
 ・毘沙門天種子及び毘沙門天真言、毘沙門天種子(百三十三字)
 ・梵字(一行、毘沙門天種子三字、金剛薩埵種子、不動明王種子)
 ・漢字偈等
 ・大精進如意宝珠真言、漢字真言等
 ・法華経観世音菩薩普門品第二十五
 ・諸尊種子(阿弥陀三尊種子、金剛界五仏種子、不動明王種子、聖観音種子、虚空蔵菩薩種子、千手観音種子、馬頭観音種子、十一面観音種子、准胝観音種子、不空羂索観音種子、毘沙門天種子、不動明王種子)
 ・毘沙門天像印仏(八体)
 ・金剛界五仏種子、観音菩薩種子(二十九行)
・「長者妙相夢想造立記」(文永七年閏九月二十五日)
・「修復記」(元和三年閏六月吉日)

■妙相の願文「長者妙相夢想造立記」

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【翻刻】南閻浮堤東隅豊葦原遠江国渕郡黍庄笠子郷橋本之宿、長者・妙相、詣河内国石河郡上宮太子御廟、発誓願云、将崇三宝、供養敬田、貧道修福田无力。伝聞、我朝仏法者、忝始太子之御誓、被興救世観音之悲願。茲弟子妙相思惟、真諦無俗諦不立、俗諦以真諦成就。将今、无世諦之福、不可成出世之法、肆発深重之願、有稚誓。而然、其夜、夢相告云、百足来身着、如是三度、来身着箒捨之。而然、至第三度、有聖人告云、是毘沙門之福也。汝可取之。依被示即取此入懐中云々。第二度夢相告云、婆祖仙人来告云、往至三州額田郡真福寺寂雲法橋許、鵞眼三十三文、麞牙乞而可取云々。終果乞取彼。第三度夢相告云(同閏年九月廿二日夜)、詣鞍馬寺毘沙門、感得大銅銭七八文、又見其跡有大銅銭。取此忽変成釜云々。第四度示現(同廿三日夜)、彼毘沙門奉作仏師以菓子一具之来云、是自神谷殿此僧給天相伝汝之云々。仰此等夢相両四度、是又願望可成就歟。又、宿願可果遂歟。依歓喜甚。以為曰此願奉作毘沙門天之形像、記此夢相之状、並仏舎利二粒、自筆観音経、毘沙門経、陀羅尼経等、入像中、唯願多聞、持国等四大天王、並、諸天、善神等、助妙相願望成就円満給云々。
   文永七年庚午閏九月廿五日
                             妙相敬白

【現代語訳】南閻浮堤(なんえんぶだい。須弥山の南方の大陸)の東の隅にある豊葦原(とよあしはら。「日本」の美称)の遠江国敷知郡吉美庄笠子郷(静岡県湖西市吉美周辺)の橋本宿の長者・妙相は、河内国石河郡(大阪府南河内郡太子町太子)の聖徳太子の御廟「叡幅寺」に詣でて、願掛けをした。「まさに三宝(仏法僧)を崇(あが)め、敬田(きょうでん。敬うべきもの)を供養しましたが、愚僧(「貧道」は僧の謙称)は、福田(ふくでん。田に蒔いた種がやがて収穫を迎えるかの如く、他人に施すことで仏果を得させる人、及び、その善行)を修めるには無力です。伝え聞くに、「本朝(日本国)の仏法は、忝(かじけな)くも、聖徳太子の御誓願に始まり、救世観音の悲願「人々を世の苦しみから救うこと」を興された」と。ここに仏弟子(仏教徒)・妙相が思惟する(考える)に、「真諦(しんたい。絶対不変の真理)は、俗諦(ぞくたい。世間の実際に即して平易に説いた道理。相対的・世俗的な真理。世諦)無くして成り立たず、俗諦は真諦を以って成就する」と」。まさに今、世諦(せたい。俗諦)の福がなく、出世(俗世間から出て仏門に入ること)の法(のり。仏の教え)が成らないのに、肆(ほしいまま)に、深重の願いを発し(立て)、稚拙な誓いをした。
 するとその夜のこと、夢のお告げがあった。私の体にムカデが這うこと3度。いずれも箒で払い落とした。しかし、3度目に払った時、聖人が現れ、「ムカデは毘沙門天の福である。お前はムカデを取れ」と告げたので、ムカデを取って懐に入れた。
 2度目の夢のお告げでは、婆祖仙人(婆藪仙(ばすせん、ばそせん、ばすうせん、ばそうせん)は、護法善神。火天の眷属で、火を尊び、火を祀る修行者とも、吉祥天の兄ともいわれる)が来て、「三州額田郡の真福寺(愛知県岡崎市真福寺町薬師山)の寂雲法橋(ほっきょう。僧位「法橋上人位」の略。法眼(ほうげん)の次の位)の許(もと)へ行き、(円形の中に四角い穴のある形が鵞鳥の眼に似ている)鵞眼(ががん。穴あき銭)33文と麞牙(しょうが。「精製した白米」の異称)3斗を乞うて取れ」と言ったので、その通りにした。
 3度目の夢のお告げ(文永7年(1270年)閏9月22日の夜)があった。鞍馬山鞍馬寺(京都府京都市左京区鞍馬本町)の毘沙門天に詣で、78文の大銅銭を感得し、また、見ると、その跡に大銅銭があった。取ると忽(たちま)ち釜に変わった。
 4度目の夢のお告げ(文永7年(1270年)閏9月23日の夜)があった。かの毘沙門天像を作った仏師が、 果子(食事以外に食べる食べ物。 古くは果物、今は菓子をいう)を1具(1よろひ。1セット)もって来て言うに、「この毘沙門天像は、高野山神谷殿(和歌山県伊都郡高野町神谷)よりこの僧が賜った仏像であるが、あなたが代々受け継ぐように」と。
 仰々(そもそも)、このように4度も夢相(夢の中に神仏の示現があること)があるということは、聖徳太子が私の願望を叶えて下さるということであろうか。宿願の果遂(かすい。本懐を果たし遂げること)の予兆であろうか。大変ありがたく思い、毘沙門天像を(安置する寺を)作って奉納し、私の見た不思議な夢相を記した物、仏舎利(釈迦の遺骨)2粒、自筆の「観音経」「毘沙門経」「陀羅尼経」などを毘沙門天像の胎内に収めることにした。四天王(多聞天、持国天、広目天、増長天)、 並びに、諸天、善神、妙相の願望が円満に成就しすよう、お助け下さい。
  文永7年(1270年)閏9月25日
                     妙相が謹んで申し上げる

【意訳】私こと橋本宿の橋本長者の娘である女長者・妙相は、河内国の聖徳太子(救世観音の生まれ変わり)の御廟「叡幅寺」に詣でて、「あなたの「十七条憲法」の「二曰、篤敬三寶。々々者佛法僧也」(第2条 篤く三宝を敬へ。三宝とは仏(ほとけ)・法(のり)・僧(ほうし)なり)を実践してきたが、衆生を救うには、私はあまりにも無力である。日本に仏教を広めた聖徳太子に願掛けすれば、救世観音のように衆生を救えるのではないかと思ってやって来た」と未熟者なのに、大層な誓願をした。
 すると、その夜、早速、第1の夢告があった。百足(ムカデ)が体に這い上がってきたので、3度も箒で払い落としていたが、聖人が現れて、「百足は毘沙門天から与えられた福である」と言うので、この百足を箒で払い落とすのをやめ、懐に納めた。
 第2の夢告があった。婆祖仙人が現れ、「「聖徳太子建立46ヶ寺」の1つの霊鷲山真福寺(実質的な建立は「毘沙門天の生まれ変わり」だという物部真福)の寂雲のもとへ行って、鳥目(ちょうもく。穴のあいた銭)33文と白米3斗をもらえ」と言ったので従った。
 文永7年(1270年)閏9月22日に第3の夢告があった。「鞍馬山鞍馬寺の毘沙門天を詣でると、毘沙門天が78文の大銅銭をお授け下さる」というもので、授けられた大銅銭を手に取ると、お釜に変わった。
 文永7年(1270年)閏9月23日に第4の夢告があった。毘沙門天像を作った仏師が来て、「高野山神谷殿の毘沙門天像をお前が受け継げ」と言った。そこで、高野山神谷殿の毘沙門天像をもらい、その胎内に、この不思議な夢の話を記した文書、私が写した経典、仏舎利2粒を納めることにした。

※後日譚:妙相は、毘沙門天像を本尊とする紅葉寺を建てたが廃寺となり、毘沙門天像や団扇、扇子といった妙相ゆかりの寺宝は応賀寺へ移された。

※参考:「毘沙門天の百足

7.応賀寺山展望台登山道


 応賀寺の裏山を「応賀寺山」といい、「浜名湖が見渡せる」と聞いたが、時間がないので、今回はパスした。

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