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紀行文「浜松城」を書いてみた。

先日、じゃむむ様から
「紀行の記事を書いていただければ是非読みたいのですがね・・・。」
というコメントをいただいたので、浜松城へ行った時のことを思い出しながら書いてみた。

──浜松城は狭い。
──とても徳川家康が17年間過ごした城だとは思えない。

 皆さん、そう思っておられるが、実は広い。天守(俗称「天守閣」)の大きさも日本の城で5本の指に入る大きさだという。狭く感じるのは、城内に建物が建ち並び、本丸とその北の芝生広場「作左谷」くらいしか残されていないからである。
 とはいえ、痕跡はあるので、まずは浜松城の前身、飯尾連竜(いのおつらたつ)のひくま城へ行ってみた。「ひくま」の表記には「曳馬」や「引馬」もあるが、浜松市の刊行物は、城の名としては「引間」で統一されている。

 引間城は、「田」の字型の縄張りで、南東端に下垂(しもたれ、霜垂)口がある。引間城の大手門である。戦に負けて帰ってきた徳川家康の兜の緒が解けて下に垂れていたことから、もしくは下痢だったから、こう名づけられたという。道が直交していないとことが、いかにも城の門前といった体である。
 下垂口から西へ行くと、「松下屋敷跡」の黄色い標柱が目に入った。ここで、松下氏は、鷹狩り帰りの徳川家康に、養子の虎松を紹介した。徳川家康は、この少年を気に入り、召抱えた。この少年こそ、後の「徳川四天王」のひとり、井伊直政である。
 道を隔てて「松下屋敷跡」の標柱の向かいに、東照宮の石標が立っていた。参道を往く。道の左側には、元城町東照宮の旧管理者である浜松報徳館や天理教元浜分教会がある。「元城(もとしろ)」は「元、浜松城があった場所」、「元浜(もとはま)」は「元、浜松宿(引馬宿)があった場所」という意味の町名である。
 「田」の字型の縄張りの引間城の、北西の区画に建てられた元城町東照宮(もとしろちょうとうしょうぐう)は、他の東照宮同様、見た目が結構、派手な神社である。ご祭神は、もちろん、東照大権現こと徳川家康であるが、大国主命と、御子神・事代主命も祀られている。浜松城が出来ると、引間城は「古城」と呼ばれ、浜松城の米蔵になっていた。明治に入って幕臣の井上延陵が東照宮を建て、大日本報徳社が管理していたが、現在は元城町が管理している。見所は手水舎の猫であったが、今は16歳の豊臣秀吉像と31歳の徳川家康像である。豊臣秀吉は、松下氏に仕え、松下氏が仕えていた引間城の城主の御前で猿が栗を食べる物まねをして、「面白い奴じゃ」と好かれたという。つまり、この引間城は、豊臣秀吉と徳川家康のゆかりの地であり、「元城町東照宮は、日本最大の出世のパワースポットである」とTVでおなじみの磯田道史氏が全国紙で紹介されたので、参拝者が急増した。「私もあやかりたい、出世したい、有名になりたい」と、2人の像の間に立って撮影し、スマホの待ち受け画面にしていることは内緒である。
 ちなみに、浜松城の別名を「出世城」という。江戸時代、浜松城主になった人たちが次々と出世したので、そう呼ばれるようになったという。(そもそも浜松城は神君家康公ゆかりの城であるので、出世を約束されたエリートしか城主になれないはずである。)浜松で、YAMAHA、HONDA、SUZUKI等の世界レベルの企業が生まれたのは、風水師に言わせれば、「浜松は風水的に優れているから」だそうだ。徳川家康は、見付に城を築いたが、織田信長の異見で、浜松に移ったという。織田信長は風水師なのか?

 「田」の字型の縄張りの引間城の中央、日限(ひかぎり)地蔵尊へ向かう。日限地蔵尊は、日を限って願掛け参りをすれば願いを叶えてくれるお地蔵様である。ここには、浜松宿の呉服屋の建て替えの際に出てきた2体の石像が祀られている。
 この日限地蔵尊から周囲を見回すと、周囲の建物が石垣の上にあることに気づく。地図で見ると「田」の字型に見える引間城であるが、「十」の字型の道は、「道」というよりも、「十」の字型の空堀の底だと思われる。身長の数倍の高さから矢や鉄砲で攻撃されたらひとたまりも無い。実際、引間城を攻めた徳川軍は、多くの死者を出している。
「こんな物騒な「殺し間」からはサッサと逃げよう」
と、日限地蔵尊から北へ進んで城外へ出る。この出入り口が「玄黙(げんもく、深目)口」である。「三方ヶ原の戦い」で負けた徳川家康が、馬を飛ばして命からがらたどりついた引間城の搦手門である。なお、「玄黙口」とは、近くに玄黙寺があったことによる。地名としての表記は、「元城」や「元浜」に合わせたのか、「元目」である。

 引間城の西の太い道路、国道152号線(長野県上田市~静岡県浜松市)「飛龍街道」を渡り、本丸を目指す。

──引間城から浜松城まで徒歩10分

と書きたいところであるが、先に書いたように、引間城は浜松城の一部であり、米蔵があった。引間城の南側が三の丸であるが、建物が建ち並び、当時の面影は無い。
 「飛龍街道」を渡ると、そこは二の丸で、現在は3つに分かれている。北から、
・浜松城公園駐車場(浜松体育館跡)
・浜松出世パーク(元城小学校跡)
・市役所
である。
 浜松城公園駐車場は広く、トイレと案内所がある。平日は空きがあるが、お昼時はスタバへ行くお客の車でちょっと混む。なお、体育館は、多目的ホール「浜松アリーナ」として、東区和田町に新設された。バスケの三遠ネオフェニックスの本拠地である。

 宇宙一大きいと思われる「三つ葉葵」がある浜松出世パークには、トイレと土産物店がある。2023年には大河ドラマ『どうする家康』の大河ドラマ館があった。

 この二の丸の撮影ポイントは、天守門越しの天守である。元城小学校が解体されて、堀尾吉晴時代の浜松城が現れた!

(書いていたら2000文字を越えたのでやめる。じゃむむ様以外、誰も読まないだろうし。そもそも紀行文は、行ってすぐに書かないと、季節感に欠けた面白くない解説文になってしまう。)


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