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三河国宝飯郡の城⑤伊奈城(1/4)概要

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※浅野文庫「諸国古城図」
https://www.library.city.hiroshima.jp/hiroshima/webgallery/kojo.html


 三河国宝飯郡渡津郡の東端は豊川、西端は音羽川だと思われる。そして中央に佐奈川が流れ、その河口付近に伊奈城がある。そう、伊奈城は、佐奈川から水をひいた水堀や周辺の深田により守られた平城である。約150年間、伊奈本多氏の居城であった城で、徳川家の家紋「三葉葵」の発祥の城として知られている。

■歴史

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 西三河を平定した松平清康(徳川家康の祖父)は、三河国平定を目指して東三河へ進攻した。この時、いち早く松平清康に従属した東三河の武将が伊奈城主・本多正忠であったという。本多正忠は、夜、吉田川を渡り、吉田城の東門を打ち破って城内に突入し、下地で牧野勢と戦っていた松平勢を導き入れたという。
 さらに本多正忠の先導で田原城へ向うが、田原城主・戸田宗光は、戦わずして降参し、松平清康の一字を貰い受けて「戸田康光」と名乗った。松平清康が吉田城へ凱旋すると、次々と東三河の土豪が挨拶に来て、東三河の統一、すなわち、三河国の統一がなり、松平清康は岡崎へ戻ったという。(以上は通説で、異説あり。)

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 この田原城から吉田城への凱旋の途中(田原城へ向う時とも、吉田城から岡崎城へ戻る時とも)、伊奈城へ立ち寄って勝利の祝宴を開いたという。そして、その時、本多正忠は、花ヶ池の水葵の葉に酒の肴を盛って出したという。松平清康は喜び、

「立葵紋は正忠の紋なり、此度の戦に、正忠最初に御方と参て、勝軍しつ、吉例也。賜らん」。(新井白石『藩翰譜』(巻4上)「本多」)

岡崎公視て悦びて曰く、「吾、凱旋して此れを得。今より当にこれを以て徽号と為す」。(頼山陽『日本外史』(巻18))

と本多家の「立葵」紋を所望したという。このことにより、「立葵」紋は松平家の紋となり、徳川家康が「三葉葵紋」に変えたという。(異説あり)
 失礼ながら、ここは「松平清康が松平家の家紋を立葵に変えた地」であって、「三葉葵発祥地」は、徳川家康が立葵を三葉葵紋に変えた地だと思う。


 その後、伊奈本多氏は、徳川家康に従属し、天正18年(1590年)、徳川家康の関東移封に伴い、伊奈本多氏は約150年間住み続けてきた伊奈城から去り、伊奈城は廃城となった。

藤原鎌足-(23代略)-中務光秀(賀茂神社神職)─本多助秀─助定─助政→
→定通─①定忠【伊奈本多氏】─②定助─③正時─④正助─⑤正忠─⑥忠俊─⑦忠次─⑧康俊…

■遺構

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 現在、曲輪と土塁が残っている本丸は、「伊奈城趾公園」として整備され、櫓が復元されている。

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 現在、水葵をとった花ヶ池は、「花ヶ池公園」として整備されている。

★豊川市「伊奈城趾公園・花ヶ池公園」
https://www.city.toyokawa.lg.jp/saijibunka/bunka/bunkazai/inajoshikoen.html



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