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鎌倉街道

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尾張国と三河国の国境は境川になります。その川岸に発達したのが境村で、「徳川四天王」の酒井氏の本貫地とされています(異説あり)。

この境には、「鎌倉街道」(上の写真)が残されています。(下の写真は「鎌倉街道伝承地」碑と案内碑。)

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「鎌倉街道」は、「いざ鎌倉の道」とも呼ばれ、鎌倉幕府に何か起きた時に鎌倉に馳せ参じる道であり、江戸時代の東海道と較べると「北にある」「山の尾根にある」という特徴があります。「鎌倉街道」が整備されたのは鎌倉初期です。平安後期~鎌倉初期は、地球温暖化の時期であり、「海進」のため、渡河点は江戸時代よりも北にあります。また、山麓は湿地帯なので、山の尾根を歩きました。

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境川を越えて尾張国へ入ると沓掛宿があり、二村山「地蔵峠」を越えると鳴海宿です。(江戸時代の鳴海宿は、鳴海城の南にありますが、鎌倉時代の鳴海宿は、鳴海城の遥か北にありました。)

■参考サイト:『まちもよう』「緑区の鎌倉街道」
http://www.matimoyou.com/15matukozima/20207midoriku.html

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二村山では約600mに渡って鎌倉街道(上の写真は「地蔵峠」付近)が保存されています。
永禄3年5月19日、この道を5000人の今川軍が西進しました。善照寺砦の西の鳴海城の城兵とで善照寺砦の織田信長を討つ作戦だったのでしょう。

「杳懸(くつかけ)の到下(とうげ)の松の本に、二かい三がゐの楠の木、雨に東へ降り倒るゝ。余りの事に、『熱田大明神の神軍(かみいくさ)か』と申し候なり」(太田牛一『信長公記』)

「桶狭間の戦い」の時、北西(熱田神宮の方向)から強風が吹き、「熱田大明神の神軍」と呼ばれました。この強風は、楠の巨木を倒し、鎌倉街道を塞ぎました。「桶狭間の戦い」の敗因は、
・25000人の内、5000人を鎌倉街道につぎ込んだ。
・木を倒されて鎌倉街道が通行止めになった。=5000人(と鳴海城に待機していた城兵)が結果的に参戦しなった。
ことでしょう。

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 とよあけ桶狭間ガイドボランティア作成の「二村山周辺図」によれば、沓掛城から鎌倉街道をやってきた今川義元は、二村山を越えず、山麓で南西に進路を変えています。この南西の道こそ、当時の鎌倉街道だそうです。(地球温暖期が終わるとミニ氷河期に入り、作物は育ちにくくなり、作物を奪い合う「戦国時代」が始まった。海が引いたので、鎌倉街道は、山の尾根の道から山麓の道に変更された。)

 「沓掛峠」は上の地図のさらに南にあり、峠には「境松」がありました。ここを通せん坊されたためか、今川義元は、「田楽ヶ窪」(『1リットルの涙』で有名な藤田医大の場所)で休み、織田信長に討たれたという異説があります。(ただ、藤田医大を建てる時に武具も白骨化した人骨も出土していません。)

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