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未発表記事「遠江井伊氏」

遠江井伊氏には、「井伊介」を称した東遠井伊氏(井伊弥太郎家)と、井伊直政を輩出した西遠井伊氏(井伊次郎家)がある。

1.東遠井伊氏の出自


東遠井伊氏の出自については、源姓横地氏説藤原姓相良氏説がある。

■横地氏系図

源義家
 ├─横地①家永─┬②頼兼
相良④光頼の娘 ├勝間田十郎権守【勝間田氏】:勝間田桃原(牧之原市)
        ├井ノ八郎【井伊氏】:浜松市西区入野町
        └戸塚七郎【戸塚氏】:川崎戸塚(牧之原市)

■相良氏系図

藤原鎌足─不比等─武智麻呂─乙麻呂─景公─雄友─弟河─高扶─清夏─維幾─為憲─時理┬時信【武藤&二階堂&入江氏】
      └①維兼─②維頼─③周頼─④光頼─⑤頼寛─⑥頼繁┬⑦頼景…
                             ├頼尭
                             └井伊介

『保元物語』に出てくる井伊介(井ノ八郎)は、常に横地氏、勝間田氏(横地氏の分家)と共にトリオで行動しているので、横地一族と考えてよいであろう。横地氏系図では、横地初代家永の三男・井氏を西遠井伊氏の祖とする。武田信玄に攻められ、井伊谷が焼け野原になった時、井伊氏が入野に逃れて井島氏と改めたという話は興味深い。(入野は郡衙に近く、大同年間(806年~810年)、藤原不比等の孫・藤原静足が開拓したという。)

■宝賀寿男(日本家系図学会&家系研究協議会会長)作成系図
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/iishik1.htm

維遠─維頼┬横地太郎頼兼   【横地・勝間田氏】
       └維弘┬周時─兼政…道直…直政【井伊氏】
            └相良太郎周頼─長頼  【相良氏】

とはいえ、入野(西遠)では遠すぎて共に行動することが困難である(入野氏の祖は、横地頼兼の弟ではなく、今川国氏の子・入野俊氏)ので、「入野(いりの)」は誤りで、本拠地は東遠の「井(ゐ)」にあったと考えるのが自然である。

今川国氏┬今川基氏…義元─氏真【今川氏】
    ├関口経氏…親永─築山御前〔徳川家康室〕【関口氏】
    ├入野俊氏【入野氏】─新野俊国【新野氏】
    └木田政氏【木田氏】

【遠江国城飼郡の式内社】
①奈良神社(静岡県菊川市上平川春日):祭神・天兒屋根命
②比奈多乃神社(静岡県掛川市上土方落合日向ヶ谷):祭神・建比奈鳥命

 平川(遠江国山名郡平河郷)は松下氏の本拠地の1つであるが、横地初代家永の外祖父・相良光頼の一族が横地に来て、式内・奈良神社を移転して「藤野神社」と称して宮司になった。(後に二俣城主になり、二俣氏と名乗る。)祭神は藤原氏の始祖・天兒屋根命である。

 比奈多之谷(現・日向ヶ谷)の比奈多乃神社の祭神は、土師氏(土方氏)の始祖・天穂日命の御子神・建比奈鳥命であり、親神・天穂日命は武田信玄が落とせなかったことで有名な高天神城がある鶴翁山の高天神社(静岡県掛川市上土方嶺向)に祀られている。

 研究者は、比奈多乃神社が東遠井伊氏と関係が深い華嚴院(遠江国城飼郡土方上郷日南多谷)の鎮守・天馬駒(てんぱく。天白、天伯、天泊)神社になったことから、この地が土師氏(土方氏)の本拠地から東遠井伊氏の本拠地に変わったと考え、東遠井伊氏を日向ヶ谷井伊氏、西遠井伊氏を井伊谷井伊氏と呼んでいる。
 とはいえ、高天神城は井伊直孝が築いたが、その後に土方義政が改修しているので、領主の交代があったとしたら、土方氏→井伊氏ではなく、井伊氏→土方氏であろう。ただし、「式内社」とは、『延喜式』に掲載されている古社である。「比奈多」という社号が「日向」という地名に由来するのではなく、祭神名「建比奈鳥」に由来するのであれば、延喜時代(901年~923年)には土方氏がいたことになる。

【高天神城 略年表】
  913年 藤原鶴翁、鶴翁山頂に神社を建てる。
1180年 謂伊隼人直孝、砦を築く。
1191年 土方次郎義政、城を築く。
1446年 福島佐渡介基正、城主となる。

 何が言いたいかというと、日向ヶ谷は古代から土師氏(土方氏)の本拠地であり、日向ヶ谷井伊氏は存在しないということである。東遠井伊氏の本拠地は日向ヶ谷ではなく、井宮神社(静岡県菊川市嶺田)周辺、笠原荘嶺田であり、嶺田井伊氏と呼ぶべきであろう。井伊直政を養子にした松下氏の本拠地(静岡県菊川市堀之内)も近い。

※松下氏
・本貫地?:静岡県袋井市浅名(旧・浅羽)松下村
・本貫地?:三河国碧海郡松下郷(愛知県豊田市枡塚地区)
・通過地:遠江国山名郡平河郷(静岡県菊川市)
・本拠地:静岡県菊川市堀之内
  ↓
・頭陀寺を本拠地とした。(若き豊臣秀吉が仕えた。)

2.西遠井伊氏の出自


 西遠井伊氏の出自については、藤原氏説、三国氏説、平賀(松葉)氏説、猪鼻氏説、この地の古代豪族(井伊谷の首長「井の国の王」)の後裔説など諸説ある。
 井伊氏初代共保に関して、最も有名な伝説は、
①「井戸から生れた。「井伊氏」と名乗り、井戸の横に橘が植えられていたことから、家紋は「井筒に橘」にした」
であり、次に有名な伝説は、
②「藤原良門流の藤原共資が国司として遠江国に来た。娘は儲けたが、息子は生れても死んでしまうので、「1度捨ててから拾った子は丈夫に育つ」という俗説を信じ、生れた子を井戸端に捨てた」
であり、次に有名な伝説は、
③「藤原良門流の藤原共資が国司として遠江国に来た。娘は儲けたが、息子は生れても死んでしまった。井伊谷に容姿端麗、頭脳明晰の神童がいると聞き、娘と結婚させた」
である。史伝は、
④「延喜年間(901年~923年)に三宅荘の荘司として着任した三宅好用の孫・井端谷篤茂の娘と、国司として村櫛荘に着任した藤原共資との間に生れたのが井伊共保である」
とする。
 井伊谷に伝わる3つの伝説と、1つの史伝。比較のポイントは、
 ──井伊共保は藤原氏か?
である。①では父親不明、②④では父親が藤原共資であるので、井伊共保は藤原氏であるが、③では母が藤原氏(藤原共資の娘)であって、井伊共保は藤原氏を名乗れない。
 ④の史伝が史実のように思われるが、そもそも藤原共資なる人物は存在したのであろうか?
・新井白石は「藤原良門は存在したが、藤原利世は存在しない」とする。
 (共資─共保という親子関係は、三国氏系図にある。)
・村櫛は遠江国衙から遠く離れており、藤原共資が国司とは考えにくい。
 (村櫛では巡検使とする。)
・子供を捨てるのは屋敷の門前でいいのに、なぜ井伊谷まで行ったのか?
 門外漢の私が岡目八目で言わせてもらえば、「西遠井伊氏(家紋は「井筒に橘」)は、井伊谷の官人・井端谷篤茂(家紋は「井筒」)の息子と、三宅荘司として着任した三宅好用(家紋は「橘」)の娘が結婚して誕生した」のであろう。(井端谷氏は井伊谷(式内・渭伊神社周辺)の土豪で井伊谷領主、三宅氏は都から来た屯倉(式内・三宅神社周辺)の荘司ではないか?)

【遠江国引佐郡の式内社】
①渭伊神社(引佐町井伊谷天白):龍潭寺から南北朝期に天白に遷座。
②乎豆神社(細江町中川):「乎豆(をつ)」は「御津」の意。
③三宅神社(細江町気賀の堀川城跡から遷座):現・屯倉水神社。
④蜂前神社(細江町中川祝田):秦氏の神社。蜂前神社文書。

■安芸平賀(松葉)氏系図

藤原鎌足─不比等─房前─真楯─内麻呂─冬嗣─良門─利世─共良─良春─良宗─共資─共保┬共宗─宗綱─共章─共家─惟共─松葉宗益─
       └井伊共家【西遠井伊氏】
松葉①資宗┬松葉朝宗(源実朝の烏帽子親)
     └②惟泰(出羽国平鹿郡へ)─③平賀惟長【平賀氏】

■西遠井伊氏系図

藤原鎌足─不比等─房前─真楯─内麻呂─冬嗣─良門─利世─共良─良春─良宗─共資─井伊①共保─②共家─③共直─④惟直─⑤道直─⑥盛直─⑦良直─⑧弥直─⑨泰直─⑩行直─⑪景直─⑫道政─⑬高顕─⑭時直─⑮顕直─⑯諄直─⑰成直─⑱忠直─⑲直氏─⑳直平┬㉑直宗─㉒直盛─次郎法師(次郎直虎)
           └直満─㉓直親┬高瀬姫
                   └㉔直政┬直勝【与板井伊氏】
                      └直孝【彦根井伊氏】

井伊谷井伊氏は⑪景直で絶家し、その後は(井伊道政の正体は)、
①渋川井伊氏が継いだ。
②「井伊介」を名乗る東遠井伊氏(井伊弥太郎家)が継いだ。
③京都から藤原宗信を呼び「井伊介」と名乗らせて継がせた。
と諸説ある。
 藤原宗信は、駿河国の三浦氏の娘と結婚し、井伊⑫道政を儲けた。井伊⑫道政の娘を桜子姫といい、別名を「駿河姫」(駿河国から来た娘が生んだ子)というが、「駿河姫」とは、井伊⑫道政のではなく、の誤伝と思われる。

★井伊直虎の正体

 式内・蜂前神社の文書に、永禄11年(1568年)11月9日付けの「井伊谷徳政令」の実施を伝える文書があり、今川家重臣・関口氏経と「次郎直虎」が連署している。この「次郎直虎」の正体については、「次郎」「直」とあることから、井伊家の宗主だとみて間違いない。とはいえ、22代宗主・井伊直盛(幼名:虎松、通称:次郎)は、永禄3年(1560年)5月19日の「桶狭間の戦い」で殉死し、井伊直盛の養子となって井伊家を継いだ23代宗主・井伊直親(幼名:亀之丞、通称:肥後守)は永禄5年(1563年)12月14日に誅殺されており、「次郎直虎」は、永禄5年(1563年)から6年間も宗主を務めていることになるが、家系図には載っておらず、現存する「直虎」名での判物(発給文書)は蜂前神社文書の1通のみであることもあって、「次郎直虎」が誰を指すのかは不明で、諸説ある。

 ・「女地頭」と呼ばれた井伊直盛の娘
 ・次郎法師(関口氏経の子)
 ・「井伊谷徳政令」に深く関与した「井主」こと井伊主水佑
 ・虎松(後の井伊直政)
 ・井伊家を乗っ取った家老・小野道好
 ・中野直之等、「直」を通字とする庶子家の宗主

※発給文書:次郎法師(「次郎」は西遠井伊家の宗主の通称、「法師」は「僧」ではなく「幼い男の子」の意)の発給文書には「次郎法師」と署名され、黒印(漢字4文字と思われるが、読めた人はまだいない。「次郎法師」「如是我聞」でいいと思うが)が押されていた(黒印状)が、井伊直虎の発給文書には「次郎直虎」と署名され、花押が書かれている。
 黒印状は、長享元年(1487年)10月20日付の「龍王丸(今川氏親。今川義元の父)黒印状」が初見で、幼少のために花押を書くことが困難であったため、代わりに臨済宗の僧侶が用いていた黒印(栴岳承芳が今川家を継ぎ、今川義元となると、まだ花押を考えていなかったので、「承芳」の黒印状を出している)を用いたと考えられている。その今川氏親の正室・寿桂尼が黒印「帰」(寿桂尼が今川氏親と結婚する際、父・中御門宣胤が寿桂尼に与えた印で「とつぐ」と読む)を用いたのは、「花押は男性のみ使用可能」というルールがあったからだという。

 通説は、父・井伊直盛の殉死に伴って母と共に出家し、井伊宗家の宗主「次郎」の名を使って「次郎法師」と名乗り、「女地頭」となった井伊直盛の娘だとする。女なので、井伊直政への繋ぎなので、24代として家系図に書かれてはいないという。とはいえ、「女地頭」祐円尼は、祖父・直宗より知名度が高く、菩提寺もある。

・井伊直平(戒名・桂雲院殿西月顕祖大居士):菩提寺・渓雲寺(川名)
・井伊直盛(戒名・龍潭寺殿天運道鑑大居士):菩提寺・龍潭寺(井伊谷)
・井伊直親(戒名・大藤寺殿剣峯宗惠大居士):菩提寺・大藤寺(祝田)
・女地頭 (戒名・妙雲院殿月船祐圓大姉) :菩提寺・妙雲寺(井伊谷)

 異説としては、『雑秘説写記』に書き加えられた注に、
「井伊谷は新野殿甥にて候井の次郎殿に下され候」
「関口越後殿、後三休と申候。此御子・井ノ次郎、井伊谷を下され候」
「井の谷は、面々持ちにて静まりかね候に付て、その後、関口越後守子を井伊次郎になされ、井の谷を下さる也。然れ共、井の次郎、若年故に御陣之時は、井之谷衆・新野左馬助、旗本に仰付られ候也」
(井伊直親が永禄5年(1563年)12月14日に誅殺され、宗主(井伊谷の領主)が不在になると、井伊遺領の奪い合いが始まったので、今川氏真は、井伊谷を新野親矩の甥で、関口越後守氏経(出家して三休)の子である幼い「井伊次郎/井ノ次郎」に与え、合戦の時は新野親矩に補佐させて、井伊谷を鎮めた)
とあることから、この「井伊次郎/井ノ次郎」が元服して井伊次郎直虎と名乗ったとする。(「井伊次郎/井ノ次郎」が「関口氏経の子」だとしても、「新野親矩の甥」というのが分からない。甥(兄弟姉妹の息子)であれば、関口氏経と新野親矩は兄弟でなければならず、新野親矩の本姓が上田ではなく関口であるか、関口氏経の本姓が新野か上田でなければならない。下掲の「新野氏系図」では、井伊直盛室を新野親矩の娘だとしているが、研究者は、井伊直盛室は、新野親矩の妹だとする。井伊直盛の子が「井伊次郎/井ノ次郎」であれば、妹の息子であるから、甥になる。)

『雑秘説写記』:新野親矩の孫・木俣守安(彦根井伊家の家老)が、井伊直政が保護したおば達から聞き書きした『守安公書記』の付録を、子孫の木俣守貞が寛永17年(1640年)に書き写した本。

■新野氏系図

新野親種┬親道〔1564年討死〕
       └親矩〔養子〕┬女子・清光妙秀:上田又右衛門秀光室
             ├女子・花山昌繁:三浦与右衛門元貞室
             ├女子・寿窓祐椿(松岳院):井伊次郎直盛室
             ├女子・本源智性:戸綿太郎右衛門正金室
             ├女子・生誉早性:戸塚左太夫正次室
             ├女子・栄光:木俣土佐守守勝室─守安守貞
             ├女子・和田新左衛門浄閑室
             ├女子・庵原助右衛門朝昌〔井伊家家老〕室
             └甚五郎〔北条家家臣。秀吉の北条攻めで討死〕

※新野親矩(にいのちかのり):信濃国の上田民部晴昌(はるまさ)の次男で、新野親種(ちかたね)の養子となる。永禄5年(1563年)、井伊直親が誅殺され、遺子・虎松(後の井伊直政)も殺されることになったが、「私が後見人なるから」と助命嘆願した。翌年、今川氏への忠節を示すために兄・親道と共に出陣し、討死した。すると再び虎松の命が狙われたので、鳳来寺へ逃がした。
 今川領内に「新野」は13ヶ所あるが、新野氏の本貫地は、藤枝市の新野か御前崎市の新野の可能性が高いという。御前崎市の新野では新野氏が興った(本拠地は新野城)が、西遠井伊氏同様、南北朝期に絶えると、今川氏は、一族の者を送り込み、新野氏と名乗らせた(本拠地は新野新城)という。新野氏の墓は、鎌倉市の矢倉のような構造であったが、現在は左馬武神社(宮司は二俣氏)に収められている。

 個人的には、井伊直虎の正体は、西遠井伊氏(井伊次郎家)の絶家の危機(武田信玄に攻められて井伊谷が焼け野原になった時)に派遣された東遠井伊氏(井伊弥太郎家)の井伊弥四郎衛門(関口柔心(関口弥六右衛門氏心)の兄?)ではないかと思っている。
 なお、井伊主水佑の正体は、川手主水助景隆だという。(川手景隆の子・良則は、井伊直政の姉・高瀬姫と結婚して、彦根藩の家老になっている。)

※東遠井伊氏「【覚書】城飼郡(後の城東郡)の式内社」
https://note.com/sz2020/n/na141b0cf4d9d?from=notice

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