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源義経と関係があった女性の数は?

 ━━英雄色を好む

という。英雄は何事にも精力(性欲、食欲、睡眠欲)旺盛で、性欲1つをとっても旺盛だという。「英雄は精力旺盛」というか、「精力旺盛だから英雄になれた」のではと思う。

『鎌倉殿の13人』(第13回)「幼なじみの絆」の放送後、
「義経、やること早すぎ~」
とネットで話題になった。郷御前(さとごぜん。『鎌倉殿の13人』の里)と源頼朝の実際の出会いはいつか分からないが、源頼朝の命令で婚約したらしく、郷御前(17歳)は、元暦元年(1184年)9月14日、京都にいる源義経と結婚するために上洛している。

■『吾妻鏡』「元暦元年(1184年)9月14日」条
 元暦元年九月小十四日庚子。河越太郎重頼息女上洛。爲相嫁源廷尉也。是依武衛仰、兼日令約諾云々。重頼家子二人、郎從三十餘輩、從之首途云々。

(元暦元年(1184年)9月14日。河越重頼(比企尼の次女の夫)の娘(比企尼の孫・郷御前)が上洛した。源義経に嫁ぐ為である。是れは、源頼朝の仰せによって、兼日(けんじつ。兼ねて)から婚約していたからだという。河越重頼の家子が2人、郎党30余人がお供をして出発したという。)

 源義経の在京期間は元暦元年(1184年)1月20日~文治元年(1185年)11月3日の約2年間であるが、その間、西国で平家と戦ったり、平宗盛を腰越まで護送したりしたので、実際に京都にいたのは1年くらいであろうか。
 源義経は、イケメンだから惚れた女性は多いだろうし、源頼朝の猶子で位も高かったので、娘と政略結婚させたい親も多かっただろう。『義経記』では、在京時に関係した女性を24人とし、中でも寵愛した女性は、「平大納言の御娘、大臣殿の姫君、唐橋の大納言、鳥養の中納言の御娘」の4人だとする。この中では「平大納言の御娘」(平時忠の娘・蕨姫)が有名である。

■『義経記』
 都におはしましける時、人知れず情深き人にておはしまししかば、忍びて通ひ給ひける女房廿四人とぞ聞こえし。其の中にも御志深かりしは、平大納言の御娘、大臣殿の姫君、唐橋の大納言、鳥養の中納言の御娘、此の人々は皆流石に優なる御事にてぞおはしける。其の外、静などを始めとして白拍子五人、惣じて十一人、一つ船に乗り給へる。

 元暦2年(1185年)11月3日、源義経らは西国(九州)の緒方氏を頼り、約300騎を率いて京を落ちた。摂津源氏の多田行綱らの襲撃を受けた(「河尻の戦い」)。同年同月6日、源義経一行200騎は、摂津国大物浦(だいもつのうら。兵庫県尼崎市)から30隻の船団を組んで九州へ向けて船出した。さて、在京時に源義経と関係した女性は、一夜限りの女性も含めて24人(25人とも、28人とも)というが、中でも寵愛した女性は、平大納言の娘(平時忠の娘・蕨姫)、久我太政大臣の娘(源雅実の娘)、唐橋大納言の娘、鳥飼中納言の娘の4人の優れた女性である。源義経は、西国落ちが決まると、女性たちに使者を送り、身の振り方を尋ねた。「親許に帰らず、源義経に従う」として、源義経と同船した女性は、静御前など白拍子5人を含む総勢11人であった。

  常磐御前(1138-?)┬今若→阿野全成(父:源義朝)
             ├乙若→義円(父:源義朝)
             ├牛若→遮那王→源義経→源義顕(父:源義朝)
             ├廊御方(ろうのおんかた)(父:平清盛)
             ├一条能成(父:一条長成)
             └源有綱室(父:一条長成)


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