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夏目可敬『参河国名所図絵』「煙巖山勝岳院鳳来寺」

1万文字以上の長文です。
鳳来寺には、それだけ見所が多いということです。

煙巖山勝岳院鳳来寺

門谷村に在。寺領千三百五十石。顕密両宗無本寺。天台学頭松高院。真言学頭医王院。又、天台方実泉院、等覚院、増進院、岩本院、般若院、不動院。真言方藤本院、日輪院、一乗院、法華院、月蔵院、円琳院。又、天台方承仕吉祥坊、杉本坊。同真言方尊教坊、中谷坊、茶屋坊。天台方円竜坊、円蔵坊、同真言方善知坊。
本尊 薬師如来長一尺八寸。利修仙人一刀三礼作。世に「峯の薬師」と称す。太田白雪の反古探に云。世俗。当薬師を指て峯の薬師と云。是は織田信長の侍女に小野於通と云るあり。其女、当国碧海郡矢作長者浄瑠璃姫の事を十二段に作りて唱ふ。其文章に当薬師の事を峯の薬師といふ。これより世に峰の薬師と称す。
 当寺の濫觴を尋るに、先代旧事本紀に云。人皇卅四代推古天皇の御宇、当国の国司奏し来りて曰、「参河国桐生山に桐樹あり。伝聞神代の樹なりと。其長さ四十九丈囲三十九尋ありて枯枝半を過。其中に虚洞あり。恰も大室の如し。龍、其上に棲みて時々雲霧を発し且大雨を降す。其西枝三十尋異鳥此枝に棲て、其長八咫余、尾長一丈余、全身五色金翠にして紅紫の光あり。一尾三茎、十二の濃淡を成。人、未だ其名を知ず。一日偶三尾を落す。此故に是を献ず」と。又、言ふ。「其洞中一仏像あり。金石にあらず。亦、土木にあらず。手指宝壺を成、金光あり」と云々。太子、是を聞給ひて乃奏て曰、「此鳳尾なり。此鳥丹穴に在。地国則希に此鳥あり。文徳を好む。今此に来れるもの蓋し陛下神皇の紀を開き儒仏の経を弘るなり。亦、彼仏像は是薬師瑠璃光如来にして国家を守護する仏尊なり。然して後代竜去て乃寺となる」。ここに鳳凰来儀せし所以をもて勅許を被り、即寺号を「鳳来寺」と称しけるとぞ。亦、斉明天皇の御代、利修仙人、百済国に渡り、鳳に乗じて還り来るとなん。亦、文武天皇の御代、彼の仙人、鳳に乗じて参内す。故に「鳳来寺」の号を賜ふとも伝へり。三説未だ其是なるを知らず。
 然して此の当山名有の元始にして其霊場たる久し。されば我朝薬師如来の出現は当山其権輿たること掩ふべからず。此に謹んで惟は夫薬師如来は東方浄瑠璃界の教主にして国家安穏衆病悉除の願主なり。此故に薬師本願功徳経に曰、「及彼(ぎうび)如来本願力故令其圀即得安穏」と。又、曰、「我之名号一経其耳衆病悉除身心安楽」と。誠に国界安穏ならずんば誰人か其楽を請ん。衆病相済ずんば孰か其寿命を保ん。此秋に当りては偏に此尊の大悲を仰て願望を成就すべき者なり。かかる所以有に依て利修仙人山に分入、推古天皇の御宇、国家安全衆病悉除の為、当山に七本椙の内、一本を伐て薬師(今の本尊)日光、月光、十二神将、四天王の尊像を一刀三礼に彫刻して岩上に安置せり。其後、文武天皇、御悩あらせ給ふにより、草鹿砥公宣卿を勅使として仙人を召給ふ。仙人再三辞退あれども、勅命遁れ難く、参内ありて。加持を奉りければ、御悩は頓に平安ならせ給ふ(可敬云山崎氏の博物釜にも(三十八丁)鳳来寺三河国開山利修仙人文武帝御不豫の時加持して癒)。其時、天皇、仙人の意願を勅問有けるに、「某は苔の莚岩を枕にて事足侍ぬ。唯願くは国家安全衆病悉除の為伽藍を立尊像を安置せん事、是、元よりの大願なり」と奏し奉りければ、御感の余り、即、勅許ありて、大宝三年卯、造営事終りぬ。其後、鳳来寺の額を賜ふ(可敬云大宝三年より年歴凡七百七十余年を経て後円融天皇の御代に此額を賜ひしなり)。光明皇后の御筆にて今楼門の額是なり。尓来後、本尊の威光も倍増して、参詣の貴賎、日を逐年を経て利益を蒙るもの枚挙に竭べからず。実に尊き霊場になん。委くは当山縁起に見へたり。
○寺領千三百五十石(村数十九ヶ村)内薬師堂領(真言学頭医王院)五百五十五石、東照宮領(天台学頭松高院)代官・庄田与三兵衛。長川通、久保、今市三ヶ村を領す。
○敬雄按に此縁起に引る『先代旧事本紀』は一名『旧事大成経』とも称て其丈は、第三十七之巻、「推古天皇十年閏十月の条」同三十三巻に見えたり。全文引てほしけれども、老年に堪ず然とも、彼書は美濃国黒滝の潮音僧と志摩国伊雑社人と相計りて偽撰せしにて正部三十八巻、副部三十四巻、合七十二巻ありて、見本は河内国泡輪宮より出たる由にて、世に流布せしを、天和元年、偽書なる事顕はれて、両人とも流罪になれり。其書に矢作橋の板も焼捨てられたり。掛橋始の本をものせたれど、如何あらん 彼の寺に古昔より云伝へし説は有へけれども、彼書を引ては偽説なるべし。
○公宣卿、勅使のこと、砥鹿神社縁起にも載て、大宝元年とありて、勅使、本茂山にて道に迷はせ玉ひしとき、老翁出て問答あり。其歌に〽しるやいかに吾名をとはゞちはやぶる神の始の神とこそいはめといへる神歌あり。委は本書を見るべし。
○夫より山を下りて、矢部村輿休山勅養寺と云寺にて餐応あり。寺説に、勅使の輿の休ませ玉ひし処故、寺号とす。
 又、矢部の彦坂彦右エ門と云は旧家にて、其時「御案内せし家也」と言伝へたり。
 又、新城藩内に大木の桜あり。彼卿の休ませし処故、「公卿桜」と云伝へたり。
 又、「彼卿の歌也」とある海というふは、『藩翰譜』『武者物語』『塩尻』等には仙台中納言政宗卿より七代の祖・大膳太夫政宗の前とし、『塩尻』には「屋代峠にて誅」とあり、又、『菅公瑠璃壷百首』には、「山あいのあしたの」として管公の御歌とせり。よく考へるべし。


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