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佐久間と馬場 丸山とりでの攻防戦

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 「長篠の戦い」における武田軍の作戦は、右翼隊が馬防柵の北端(大宮激戦地)、左翼隊が南端(竹広激戦地)を攻め、徳川&織田連合軍が南北端に集中して中央が手薄になったら中央隊が中央突破(柳田前激戦地)するというものであったという。

右翼隊:馬場信春 vs 佐久間信盛
中央隊:内藤昌豊
左翼隊:山県昌景 vs 徳川家康

■阿部四郎兵衛『長篠日記』
 武田勢は押し太鼓を打て掛かり、「大筒に構へるべからず」とて、無二無三に佐久間が手へ駈け入り、鯨波をどっと上げる。(中略)馬場美濃守は、700の人数を以て佐久間右衛門尉6000の人数を柵の内へ追い込み、43人(内侍4騎)討ち取る。

 武田勢は押し太鼓(進軍太鼓)を打って攻め掛かり、「大筒を気にするな」と言って、無二無三に佐久間隊に突進し、鯨波(鬨の声)をどっとあげた。(中略)馬場美濃守信春隊700人は、佐久間右衛門尉隊6000人を馬防柵の中へ追い込んだ。この時、足軽39人、武将4人、合計43人を討ち取った。

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■阿部四郎兵衛『長篠日記』
 馬場美濃守は、如何にも静々と来る。其の気色、一足も引かず、勝負を決せんと思ひ入りて来る体にて、手勢700騎を2手に分け、新手にて佐久間が旗を立てたる所へ懸かり、柵の内へ追い込む。

 馬場信春は、ゆっくりと進軍してきた。その様子は、「一歩も引かず、勝負を決しよう」と思って来るようで、手勢700人を2手に分け、新手で佐久間信盛が旗を立てた「丸山」に襲い掛かり、佐久間隊を馬防柵の内側へ追い込み、丸山砦を占拠した。

この丸山の近く(新城市須長辻脇)で「上州沼田産矢立硯」が発見された。

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■上州産「矢立硯」の発見場所(現地案内板)
 昭和39年春、この看板の位置より60メートル程南の下流に堰堤が造られたが、その工事中に青みがかった小さな硯が発見された。縦116ミリ・横29ミリ・厚さ12ミリの細長い形で、長年使ったものらしく、中央部はかなりのへこみをみせている。
 これは「矢立硯」で、筆や小刀などとともに桧扇型の硯箱に収め、矢を差し入れておく箙や鎧の引き合いに入れて携行したものである。陣中において武士たちの戦功を記録させるために用い、時には歌や句の詠草や手紙をしたためるのに使った。
 硯刻家 名倉鳳山氏の調査・鑑定によれば、硯材は橄欖岩(火成岩の一種)で、上州(群馬県)沼田の在の川場村産とのこと。
 この発見場所は、設楽原の戦いの中でも激戦地で、多くの上州武者が討死にし、真田兄弟が倒れたのもこのあたりであることを思うと、この矢立硯は上州武者の携行したものと推定され、400年間土中に埋もれて保存されてきた「物言わぬ〝戦いの証人〟」といえる。

 徳川家康の忠臣の「鬼作左」こと本多作左衛門重次もこういった矢立を使ったのだろうか。本多重次が「長篠の戦い」の時、陣中から妻に宛てた
「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」
(「お仙」:仙千代。後の丸岡城主・本多成重)
は「日本一短い手紙」といわれる。

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