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持統上皇三河御幸の行宮

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「持統天皇伊勢行幸/持統上皇三河御幸」に私にしては珍しく「スキ」が4つも付いていたので、嬉しくなって続編を書いてみる。

天皇は「御所(ごしょ)」に住んでいる。外出先のホテルは「行宮(あんぐう)」とか「仮宮(かりみや)」と呼ばれるが、音羽川河口の堤防の上(愛知県豊川市御津町下佐脇字御所)にある案内板(上の写真は、御津町が豊川市に編入する前の旧案内板)には、「夫の天武天皇の旧蹟」を訪ねるロマンチックな旅の「行在所(あんざいしょ)」とある。

ここには、このロマンチックな旅において宮廷歌人の高市連黒人の詠んだ「安礼の埼」の万葉歌碑(御津磯夫書)と、御津磯夫の歌碑(持統上皇の三河国御幸の目的は、『続日本紀』には記録されていないが、「大海人皇子の跡訪う旅であった」と私は記録する)

  三河への 御幸(みゆき)は皇子(みこ)が 跡訪(あとと)ふと
                                      紀(き)にのこらねど 吾(われ)は記(しる)さむ

がある。

跡訪(あとと)う:辞書によれば「①行方を訪ねる。②亡くなった人の霊を弔う。また、その仏事を行なう」の意。
 この和歌の「皇子」は、「大海人皇子時代の天武天皇」であろうが、御津磯夫は、本当は、「持統上皇の三河御幸は、①大海人皇子の生誕地を訪ね(大海人皇子東三河生誕説)、②「壬申の乱」の時、宮道山で亡くなった草壁皇子の墓を宮路山に建てる(草壁皇子「壬申の乱」討死説)の旅」と言いたかったのではないかと思う。
御津磯夫(1902-1999):短歌結社「三河アララギ」の創設者。本名、今泉忠男。昭和9年、『醗酵』(17号)「引馬野考」において、「『万葉集』の「引馬野」も「安礼の崎」も御津町にある」と発表し、昭和16年11月、斎藤茂吉が現地調査にやって来て、「新史料が発見されない限り、現時点では『万葉集』の「引馬野」も「安礼の崎」も御津町にあると考える」と支持した。

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 愛知県豊川市御津町下佐脇字御所にあった「行在所」の建物は、神社「御所宮」の建物として転用され、現在は佐脇に移設されていると聞いて行ってみた。新しい。万葉時代の建物には見えない。『天井の虹』に出くる行宮とは違う。御津町の豊川市編入後の新案内板(上の写真)には「江戸時代初期」とあった。改築されてしまったようだ(残念だ)。

 「行在所」が愛知県豊川市御津町下佐脇字御所にあったというのは、地名が「御所」であることであり、石碑の場所に確定されたのは、渡辺富秋、石川新栄、御津磯夫(今泉忠男)の3氏の調査によるもので、根拠は「伝承(口碑)」であり、柱等が出土したからではない。(それで御津磯夫氏が論文を書いて記録に残した。)
 「行在所」の少し上流に「御所橋」がある。地名から付けたのであろう。さらに上流の白鳥台地の上に三河国府がある。私は、三河国府は、音羽川の河口の台地上に建てられたと考えている。私の説では、「行在所」跡は、万葉時代には海底、少なくとも砂州であり、「そんな場所に建てるか?」「そもそも、持統上皇は、なぜ、安全な国衙に泊まらなかったのか?」と不思議に思う。

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江戸時代の参勤交代は大変だったという。
また、昨日のNHK大河ドラマ『青天を衝け』で描かれた和宮親子内親王(仁孝天皇の第8皇女)が江戸幕府第14代将軍・徳川家茂に嫁ぐ降嫁の行列は、大名行列の比ではなく、人数は警護や人足を含めると3万人、行列の長さは50km、御輿の警護には12藩、沿道の警備には29藩が動員されたという(草津宿本陣蔵『仁孝天皇御末女和宮様御下向御列書』)。
持統天皇三河御幸一行の数は知らないが、『続日本紀』「大宝2年11月25日条」に「車駕至自參河。免從駕騎士調」(持統上皇が三河国より帰京した。同行した騎馬隊の調(税)を免除した)とある。この同行した騎馬隊の駐屯地には「御馬(おんま)」という地名が付けられた。御津磯夫は、この「御馬」(御馬湊(現・御馬漁港)を中心として栄えた漁村)一帯を『万葉集』の「引馬野」、音羽川の河口を「安礼の崎」と考え、斎藤茂吉が認めたので、「引馬野」という地区名と、「安礼の崎」(愛知県豊川市御津町安礼の崎)という地名が付けられ、石碑(上の写真)が建てられたり、道路標識が付けられたりした。今後、観光客は、「引馬野」「安礼の崎」という道路標識を見たり、そこにある神社の名が「引馬神社」(旧・牛頭天王社。明治維新の神仏分離令で、「素盞嗚神社」「御馬神社」と改称せずに、「引馬神社」と改称。豊川市御津町御馬梅田)であることを知ったりして、「ここが『万葉集』の「引馬野」「安礼の崎」かぁ!」と感激するに違いない。(古語の「野」は、「草原」ではなく「台地」の意であり、「御馬」が「引馬」であるならば、地域名は「引馬海岸」「引馬ビーチ」にしないと、地名と地形が一致しない。名が体を表さない。)

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  夏の月 御油より出でて赤坂や  松尾芭蕉

東海道58次・御油宿と赤坂宿との間は2km弱で、東海道の宿場の間隔としては最も短く、松尾芭蕉は夏の夜の短さに例えてこう詠んだ。

地名「御油(ごゆ)」の由来は、「持統上皇に油を献上したこと」によるというが、通説は「弘法大師が掘った5つの井戸「五井」の転訛」とされる。

赤坂は、宮道氏(後の蜷川氏)の本貫地・宮道にある鎌倉街道「宮道山越え」の終始発点である。(なお、宮道山には持統天皇の頓宮(とんぐう。「仮宮」「行在所」のうち、滞在期間が長いものを「行宮」、短いものを「頓宮」という)があったことから、「宮路山」と表記を変更した。)

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赤坂の杉森八幡社の案内板(上の写真)には、「当社は大宝2壬寅年(702年)、持統上皇が、東国御巡幸のとき、当地の頓宮におられたとき、伊勢神宮領御厨跡に大神宮・八幡社を勧請遊ばされ、両宮とも神鏡を納められたと伝えられる」(当社・杉森八幡社は、大宝2年(702年)、持統上皇が三河国行幸で当三河国の行宮におられた時、伊勢神宮領「御厨」跡に大神宮(伊勢神宮)の天照大神、八幡宮の八幡神を勧請し、神鏡を御神体として納めて創建した神社である)とあるが、実はこの杉森八幡社は頓宮で、持統上皇がおられた時、遠江国の引馬野から長忌寸奥麻呂がやって来て、

  引馬野に にほふ萩原 入り乱れ 衣にほはせ 旅のしるしに

という和歌を献歌したと伝えられている。(『万葉集』には、「萩(はぎ)」を「榛(はり)」に変えて収録されている。『万葉集』の時代は記録をとらなかったのか、有名な柿本人麻呂の歌でさえ、「あみ(阿見)の浦に…」「あご(阿児)の浦に…」と1字変えて2回掲載されている。)

赤坂の杉森八幡社:豊川市赤坂町西縄手。ご祭神は天照大神、誉田別尊(応神天皇)、大鷦鷯尊(仁徳天皇)、息長足姫尊(神功皇后)である。つまり、「八幡社」と名乗っているが、実際は天照大神を祀る神明宮であると共に、八幡神(応神天皇、神功皇后)と御子神・仁徳天皇を祀る八幡宮でもある。
 言い伝えによると、持統上皇が伊勢神宮を奉迎して四方拝をしたという「神力石」があったが、子供たちがこの石の上で遊んでいるのを見て、神罰を受けぬよう、宝暦年間(1751-1764)に境内の地中に埋めたという。

『続日本紀』には、
9月19日:ルート上の5ヶ国(伊賀、伊勢、美濃、尾張、三河)に行宮を建てるよう指示をした。
10月10日:三河国御幸に出発した。
11月13日:尾張国に入った。
11月17日:美濃国に入った。
11月22日:伊勢国に入った。
11月24日:伊賀国に入った。
11月25日:帰京した。
とある。三河国への入国日は不明であるが、伊勢国から海路で向かったという。伊勢国で数日過ごしたとしても、10月19日には入国したであろう。そして、行宮を建てるよう指示したのが9月19日! 1ヶ月で持統上皇に泊まっていただけるような立派な建物が建てられるだろうか?

 ──新築ではなく、改装(リフォーム)ではないか?

三河国には伊勢神宮領「御厨(みくりや)」があり、天照大神を祀る神明宮(伊勢神宮の分社)が100社弱あったという。赤坂の杉森八幡社の案内板には、持統上皇が三河御幸時に、伊勢神宮領御厨跡に天照大神と八幡神を祀ったとあるが、持統上皇三河御幸時には神明宮(を改装した頓宮)であり、後に流行神の八幡神が祀られたという。

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 上の写真は、荻(おぎ)原(西尾市吉良町荻原)にある神社である。「荻原神社」ではなく、「萩原神社」「榛原神社」でもなく、「羽利(はり)神社」という。そして、この神社も頓宮だったという。

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「奥山田のしだれ桜」(愛知県岡崎市奥山田町屋下)は、持統上皇が村積神社の宮司家に泊まった時(現地案内板(上の写真)では「持統天皇の村積山行幸の際」)に、宮司の屋敷の庭に植えた「お手植えの桜」だという。持統上皇の宿泊所は複数あり、行宮だけではなく、神社の宮司の屋敷にも泊まったようだ。

 そういえば、「壬申の乱」の時の大海人皇子の本陣を、「不破道」(関ケ原の関所「不破関」)の不破郡家と思っている方がおられたが、本陣は「野上行宮」(関ケ原町野上の「長者屋敷」と呼ばれる丘陵地)である。尾張国の豪族・尾張氏の屋敷(尾張連大隅(おわりのむらじおおすみ)の私有地)であり、「不破関」は大友皇子の首を晒した場所である。(ちなみに、関ケ原合戦の際に徳川家康が布陣した「桃配山」は、「壬申の乱」の時に大海人皇子が兵を励ますために桃を配った場所である。)持統上皇も豪族の屋敷に泊まった?


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