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三河国一宮「砥鹿神社」の歴史

砥鹿神社は3社あります。

奥の院:本宮山の山頂付近の「天之磐座」にある「岩戸神社」
奥 宮:本宮山の山頂付近の「本宮山砥鹿神社奥宮」
里 宮:「三河国一宮砥鹿神社(里宮)」

多くの方々が「砥鹿神社の歴史」を、
山岳信仰:本宮山は神名火(かむなび)山。山中の磐座で祭祀。
山神信仰:本宮山の山中に奥宮を創建。
川神信仰:豊川の川岸に里宮を創建。
と考えておられますが、私は、
奥宮の創建:御祭神は亡くなった三河国造の御霊。
里宮の創建:持統上皇三河御幸時に、草鹿砥氏が懇願して創建。
奥の院の創始:熊野修験が本宮山に入って行場とした。
と考えています。

■砥鹿神社公式サイトからの引用
里宮の歴史
 「但馬続風土記」によれば、神代大己貴命は国土を開拓し、諸国を巡幸されて但馬国朝来郡赤淵宮にお移りになって、更に東方三河国に向かわれたとあり、社伝にはその後命は「本茂山(ほのしげやま)」(本宮山)に留まって、この山を永く神霊を止め置く所「止所(とが)の地」とされたとある。
 そして、里宮に大神が鎮まるに至った経緯を、「三河国一宮砥鹿大菩薩御縁起」(天正二年)は次の様に伝えている。
 文武天皇の大宝年間に天皇の病を鎮める為、草鹿砥公宣卿が勅使として「煙巌山」に使わされた。公宣卿は三河の山中において道に迷うが、この時出現した老翁の導きにより無事祈願を果たし、天皇の病も平癒された。天皇はこの老翁に礼を尽くすため、再度この地に勅使を使わされた。公宣卿は再び三河国本茂山に入って老翁と面会し、その望みにより山麓に宮居を定めることとなった。その時老翁は衣の袖を抜き取り、宝川の清流に投じたが、公宣卿はこれを追って山を下り、山麓辰巳の方の岸辺に留まった袖を取り上げて、七重の棚を作り七重の注連縄を引廻らして斎き祀ったのである。古くから朝廷の崇敬篤く、文徳天皇嘉祥三年に従五位下とあり、順次神階を進め、貞観十八年には従四位上に至った。こうして平安時代には、「延喜式内社」に列せられ、次いで三河国の国司が国内神社に巡拝奉幣する筆頭神社「一之宮」となったのである。
神代より大神様が鎮まる霊山
 標高789メートルの本宮山(ほんぐうさん)。各所には古代祭祀遺跡が点在することから砥鹿神社の創祀(そうし)と考えられます。
奥宮の歴史
 神代より本宮山は大己貴命(おおなむちのみこと)の神霊が鎮まる霊山。その姿が秀麗で東三河平野のどこからも拝することが出来るため、古代の人々の崇敬の対象とされてきました。
 また、御山の頂上をはじめ、山中に横たわる巨巌(きょがん)や御神木の大杉などの巨木(きょぼく)の存在は、神々の鎮まる磐座(いわくら)・磐境(いわさか)として崇められ、宝川を始め御山から平野に流出する幾筋もの渓流は、稲作の豊かな水源として尊ばれてきました。
 大宝年間(701年~704年)には、神託により里へ社殿を造営にあたり山頂の社(やしろ)を奥宮、里の社殿を里宮と称して、二所一体の崇敬をあつめるにいたりました。
https://www.togajinja.or.jp/about/

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