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三河鈴木氏

 熊野速玉大社の神職を世襲した榎本氏、宇井氏、穂積氏(藤白鈴木氏)の三氏を「熊野三党」という。
 熊野生まれの鈴木善阿弥(紀伊国藤白(和歌山県海南市)を本拠地とする藤白鈴木氏)が三河国に移った。この鈴木善阿弥が「三河鈴木氏の祖」である。鈴木善阿弥は「鈴木善阿弥屋敷」(愛知県豊田市矢並町向田)に住み、矢並郷を拠点に勢力を拡大していった。この鈴木善阿弥の正体については、鈴木重善説と平内太夫善阿説がある。

①鈴木重善説:鈴木重善は、文治5年(1189年)、奥州平泉へ下る源義経に従っていた甥・鈴木重家(兄・鈴木重倫の子)を追って紀州熊野を発ったが、三河国矢作宿(愛知県岡崎市)で脚を痛めての療養中に源義経の死を知り、奥州行きを諦めて矢並に留まったという。

  穂積姓藤白鈴木重邦┬重倫┬重家………重実┬重伴【江梨鈴木氏】
           ├季重└亀井重清        └重恒【藤白鈴木氏】
           ├重善─重信【篠原鈴木氏】
           └重定

②平内太夫善阿説:鈴木善阿弥は矢並郷を拠点に勢力を拡大し、猿投神社の修復に努めたという。1345~1349年の三河国三宮・猿投神社(愛知県豊田市猿投町大城)の神宮寺「白鳳寺」(天武天皇御世の白鳳年間に勅願によって建てられた寺。『三河国神明名帳』の写本を保管していたことで知られる)の大修復に携わった矢並殿(矢並入道)は、矢並郷に住む平内太夫善阿なる人物である。

 鈴木重善説は伝説、平内太夫善阿説は史実だというが、鈴木善阿弥(1100年代の人物)と平内太夫善阿(1300年代の人物)は別人であろう。
 また、鈴木山光恩寺(豊田市竹元町南嶋)は、文治4年(1188年)、鈴木善阿弥(鈴木七郎重善)の開基といわれ、鈴木重善説は伝説ではなく、史実のように思われる。

 軽自動車の生産で世界的に有名なスズキ株式会社の本社(静岡県浜松市南区高塚町)近くの浜松市西区篠原町の権現地区は、日本一の鈴木姓密集地で、住民の8割が鈴木姓である。
 源義経を追った鈴木重善が、「平泉に着く前に行方不明になった」と聞いた紀州に残された妻は、子・重信と共に平泉に向かうが、遠江国橋本宿(静岡県湖西市新居町)で、「源義経の家臣は全員切腹した」と聞き、橋本宿に留まり、後に鈴木重信が篠原に移って篠原鈴木氏の祖となったという。

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