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「ヤマトタケルの東征」の最初と最後

 ヤマトタケル(『日本書紀』では「日本武」、『古事記』では「倭建」)は東征=東国征伐&平定をしました。
 「東国」とは、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)にあった「不破関」より東の国々のことですから、尾張国が境界であり、「尾張国から進軍して、尾張国に戻ってきた」のが「ヤマトタケルの東征」です。

※この「ヤマトタケルの東征」の時、ヤマトタケルは、「吾妻(あづま)はや」(「ああ、わが妻よ」の意。ここで言う「妻」とは、尾張国の尾張氏の娘・美夜受比売(宮簀媛)ではなく、伊勢国の穂積氏の娘・弟橘比売(弟橘媛))と『古事記』では足柄坂(足柄峠)、『日本書紀』では碓日坂(碓氷峠とも、鳥居峠とも)で叫びました。これ以降、これらの峠より東が「東国」と呼ばれることになりました。(とはいえ、後の『万葉集』の「東歌」には、三遠国境の浜名湖以東の歌が掲載されていますが。)

1.東征の始まりは「鳴海潟」


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「倭武尊御歌」碑

  奈留美良乎 
    美也礼皮止保志 
        比多加知尓 
  己乃由布志保尓 
    和多良部牟加毛

・なるみらを みやればとほし ひたかちに このゆふしほに わたらへむかも
・鳴海浦を 見やれば遠し 火高地に この夕潮に 渡らへむかも

ヤマトタケル軍は、鳴海潟から、尾張水軍の軍船3隻に乗って出陣しました。そして、鳴海潟に戻った時に上の和歌を詠みました。歌意は、「鳴海浦の方を見れば、対岸に遠く「火高の地」= 尾張国愛知郡大高郷(現・愛知県名古屋市緑区大高町火上山)が見える。早速、今日の夕方の潮に乗って、妻が待つ対岸へ渡ろうか」です。

「御歌にある「火高(現在の大高)」とは尾張国造城館の所在地で、日本武尊の后である宮簀媛命が住んでおられました。東征からの帰還の際に、日本武尊は鳴海潟(現在の鳴海駅北)から対岸の火高丘陵まで船で渡ったことが伺えます。」(成海神社公式サイト)
https://narumi-jinja.or.jp/about/

★大高周辺のみどころ一覧
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