『浚明院殿御実紀』本文(正史)全55巻+付録(逸話集)全3巻(江戸幕府第10代将軍・徳川家治)
暇なので、『徳川実紀』の「浚明院殿御実紀」(徳川家治の記録)を訳そうかと思ったら、全部で58巻!(無理だぁ><)
頑張ったところで。今までの私の『徳川実紀』の記事は、徳川家康の記事ですらPV数が少なく=需要が無く、スキが1個か2個という実態を考えると、徳川家治の記事でも、努力が報われそうにないので、本記事で冒頭部分を紹介するにとどめます。
【現代語訳】 浚明院殿(徳川家治)の諱(いみな)は「家治」。徳川家重の長男。母親は、従二位権中納言・藤原通条卿(梅渓)の娘の従三位幸子という。(「至心院」ともいう。)
元文2年(1737年)5月22日、江戸城西ノ丸に生まれる。
元文2年(1737年)10月10日、初めて江戸城に移り、祖父・徳川吉宗から備中国青江の刀、山城国来国次の指添(さしぞえ、脇差)を与えられた。
元文4年(1739年)11月1日、江戸城西ノ丸にて「髪置」(普通は3歳になった年の11月15日に行う通過儀礼)を行った。
元文5年(1740年)12月15日、諱「家治」を名乗り、寛保元年(1741年)1月21日、「袴着」(初めて袴をはく通過儀礼)を行った。
同じく元文5年(1740年)8月12日、「加冠」(叙任)されて、従二位、権大納言に叙任され、寛保元年(1741年)9月25日、徳川吉宗が江戸城西ノ丸に引退された後は、常に徳川吉宗の膝の上に居た。
性格は、温恭(おだやかでつつしみ深いこと)、仁孝(思いやりがあって情深く孝行なこと)で、しかも夙慧(幼い時から利発なこと)であったので、徳川吉宗は、特に可愛がって、自ら修斉治平(修身斉家治国平天下。身を修め、家を斉し(安定させ)、国を治め、天下を太平にする)の要道(大切な教え)を熱心に諭され、その上、猶、「文武の道を導いてもらおう」とて、各方面の専門家を選んで指南させたので、元々鋭敏な上に努力したので、いつとはなく、日本や中国の本を広く読み、歴代の事蹟(歴史)を暗記し、弓馬の術(武術)や鉄砲術を極め、その一方で、書、絵画、囲碁、将棋に至るまで、幅広いジャンルにおいて、奥義を極めた。
寛延2年(1749年)5月5日、具足始(初めて甲冑を身に付ける通過儀礼)、宝暦元年(1751年)5月2日、袖留(元服のおりに,それまで着ていた振袖の脇をふさぐ通過儀礼)が行われた。
同じく宝暦元年(1751年)6月、徳川吉宗が不予(病気)になると、毎日、湯薬を自ら飲ませ、危篤の時には枕元に呼ばれ、遺教(最後の教え、遺言)を聞いた。亡くなられると、哀慟(悲しくて泣き叫ぶこと)甚だしく、左右(側近)を感動させた(心を揺さぶらせた)という。
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