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『浚明院殿御実紀』本文(正史)全55巻+付録(逸話集)全3巻(江戸幕府第10代将軍・徳川家治)

 暇なので、『徳川実紀』の「浚明院殿御実紀」(徳川家治の記録)を訳そうかと思ったら、全部で58巻!(無理だぁ><)
 頑張ったところで。今までの私の『徳川実紀』の記事は、徳川家康の記事ですらPV数が少なく=需要が無く、スキが1個か2個という実態を考えると、徳川家治の記事でも、努力が報われそうにないので、本記事で冒頭部分を紹介するにとどめます。

「浚明院殿御実紀」(巻1)宝暦10年5月に始まり、8月に終わる。御齢24。
 浚明院殿、御諱は家治。惇信院殿の御長子。御母は従二位権中納言藤原通条卿(梅渓)の女、従三位幸子と申す。(至心院とも申し奉る御事なり。)
 元文2年5月22日、西城に生まれ奉る。
 10月10日、初めて本城に渡らせ給ひて、御祖父有徳院殿より青江御刀、来国次御指添をさづけ給ふ。
 4年11月朔日、西城にて御髪置の式。
 5年12月15日、御諱を進らせられ、寛保元年正月21日、御袴着あり。
 その年、8月12日、加冠し給ひて、従二位権大納言に叙任せられ、延享2年9月25日、有徳院殿、西城に御隠退ありし後は、常に御膝下に侍らし給へり。
 御性質、温恭(おんきょう)、仁孝(じんこう)にて、しかも御夙慧(しゅうけい)にましましければ、有徳院殿、特に御鍾愛ありて、御自ら修斉治平の要道をあつくさとし給ひ、その上にもなお「文武の芸術を導き給はん」とて、それぞれの人を撰び付けさせ給ひしかば、元来、御頴敏(えいびん)なる上に御精力を励まし給へば、幾程無く和漢の書籍を広く見そなはし給ひ、歴代の事蹟をよく諳記せられ、弓馬釼砲の術、もっとも精微にいたり給ひ、かたはら、書画、囲棋の末枝まで、よく壼奥(こんおう)を極め給ふ。
 寛延2年5月5日、御具足始、宝暦元年5月2日、御袖留の式あり。
 同じ6月、有徳院殿、御不予(ふよ)なりしに、日々に湯薬を御自らすすめ給ひ、御大漸(たいぜん)の時に御床に召し、御遺教(ゆいきょう)あり。御事はて給ひし後は、哀慟(あいどう)の甚だしき、左右を感動するに至れりとか。

【現代語訳】 浚明院殿(徳川家治)の諱(いみな)は「家治」。徳川家重の長男。母親は、従二位権中納言・藤原通条卿(梅渓)の娘の従三位幸子という。(「至心院」ともいう。)
 元文2年(1737年)5月22日、江戸城西ノ丸に生まれる。
 元文2年(1737年)10月10日、初めて江戸城に移り、祖父・徳川吉宗から備中国青江の刀、山城国来国次の指添(さしぞえ、脇差)を与えられた。
 元文4年(1739年)11月1日、江戸城西ノ丸にて「髪置」(普通は3歳になった年の11月15日に行う通過儀礼)を行った。
 元文5年(1740年)12月15日、諱「家治」を名乗り、寛保元年(1741年)1月21日、「袴着」(初めて袴をはく通過儀礼)を行った。
 同じく元文5年(1740年)8月12日、「加冠」(叙任)されて、従二位、権大納言に叙任され、寛保元年(1741年)9月25日、徳川吉宗が江戸城西ノ丸に引退された後は、常に徳川吉宗の膝の上に居た。
 性格は、温恭(おだやかでつつしみ深いこと)、仁孝(思いやりがあって情深く孝行なこと)で、しかも夙慧(幼い時から利発なこと)であったので、徳川吉宗は、特に可愛がって、自ら修斉治平(修身斉家治国平天下。身を修め、家を斉し(安定させ)、国を治め、天下を太平にする)の要道(大切な教え)を熱心に諭され、その上、猶、「文武の道を導いてもらおう」とて、各方面の専門家を選んで指南させたので、元々鋭敏な上に努力したので、いつとはなく、日本や中国の本を広く読み、歴代の事蹟(歴史)を暗記し、弓馬の術(武術)や鉄砲術を極め、その一方で、書、絵画、囲碁、将棋に至るまで、幅広いジャンルにおいて、奥義を極めた。
 寛延2年(1749年)5月5日、具足始(初めて甲冑を身に付ける通過儀礼)、宝暦元年(1751年)5月2日、袖留(元服のおりに,それまで着ていた振袖の脇をふさぐ通過儀礼)が行われた。
 同じく宝暦元年(1751年)6月、徳川吉宗が不予(病気)になると、毎日、湯薬を自ら飲ませ、危篤の時には枕元に呼ばれ、遺教(最後の教え、遺言)を聞いた。亡くなられると、哀慟(悲しくて泣き叫ぶこと)甚だしく、左右(側近)を感動させた(心を揺さぶらせた)という。

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