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土屋昌次柵にとりつき大音声

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三子山(みこやま)に真田兄弟の墓ならぶ

■阿部四郎兵衛『長篠日記』
 馬場美濃守は、如何にも静々と来る。其の気色、一足も引かず、勝負を決せんと思ひ入りて来る体にて、手勢700騎を2手に分け、新手にて佐久間が旗を立てたる所へ懸かり、柵の内へ追い込む。
 長篠方、惣鉄砲を一度に放ち掛ける故、先に進みたる者は是に中(あた)りて討ち死にす。
 真田源太左衛門、同兵部は、馬場美濃守と入れ替はり、柵を一重破り、兄弟ともに深手を負ひ、討ち死になり。源太左衛門の首は三州の住人、渡部半十郎打ち取る。
 伊奈図書晴成、宮脇前にて高名す。
 信長公は、佐久間が手、弱く見えたり。「横槍を入れよ」と仰せ付けられ、滝川と羽柴筑前守と、一度に宮原前へ突き懸かる。甲州勢、敗軍す。
 土屋右衛門尉は、「先月(天正の始酉)信玄公の御弔いに追い腹を切るべき処に、高坂弾正、『時節を待て』と異見有りし故、命を存(ながら)え、唯今、討ち死になり」と呼ばわり鳧(けれ)ども、敵、出合わず故に、自ら柵を破り、討ち死にす。
 渡部忠右衛門、小栗又一は、堀野無手右衛門と云ふ甲州士に渡り合ひ、両人相討ちに打ち取る。

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土屋昌次柵にとりつき大音声

 馬場信春は、ゆっくりと進軍してきた。その様子は、「一歩も引かず、勝負を決しよう」と思って来るようで、手勢700人を2手に分け、新手で佐久間信盛が旗を立てた「丸山」に襲い掛かり、佐久間隊を馬防柵の内側へ追い込み、丸山砦を占拠した。とはいえ、徳川&織田連合軍は、全鉄砲を一度に放ったので、先手は撃たれて死んだ。
 真田信綱、弟・昌輝の兄弟は、馬場信春と入れ替わり、三重の馬防柵の第一の柵を破り、兄弟共に深手を負い、討死した。真田信綱の首は三河国の住人・渡辺政綱(渡辺半蔵守綱の実弟)が討ち取った(というが、史実は織田信長配下の柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉らではないかとする説がある)。
 伊奈晴成(今成、昭綱)は、宮脇前で高名をあげた。
 織田信長は、佐久間信盛隊が弱く見えたので、「横槍を入れよ(加勢して側面攻撃をせよ)」と命令し、滝川一益と羽柴秀吉が一勢に宮原前(「大宮前」の誤り)へ突きかかったので、武田軍は、敗けた。
 土屋昌次(昌続)は、「先月(「先年」の誤り。天正元年)、武田信玄の弔いに追い腹を切るべき(殉死すべき)であったが、高坂昌信が、『死ぬ時は今ではない』と言うので死ぬのをやめたが、今こそ、死ぬ時である」と叫んだが(死を覚悟した人ほど怖いので)誰も向っていかなかった。仕方なく、自ら敵に向かい、馬防柵を乗り越えようとして、討ち死にした。
 渡部重綱と小栗忠政は、堀野無手右衛門(ほりむずえもん。堀無手右衛門、堀武手右衛門)という武田軍の武将(一条信龍の家臣)と戦い、二人掛りで討ち取った。

※馬場隊に替わって真田隊が攻めた。兄・真田信綱は鉄砲に撃たれて亡くなり、続いて弟・真田昌輝(まさてる)も討ち死にした。宮脇の三子山には兄弟の名を刻んだ墓石がある。

 真田頼昌┬信綱
     ├昌輝
     ├昌幸┬信之
     └信伊└信繁(幸村)

※土屋昌続が亡くなった場所には「かるた看板」(土屋昌次柵にとりつき大音声)と石碑が立っている。

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